内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

仮象として遍在するリモートな〈私〉の存在の耐え難い軽さ ―「接続」は「繋がり」ではない

2021-01-27 05:17:44 | 雑感

 数年前からテレビ会議を使って日仏合同ゼミを企画しようと試み、実際にはトホホな結果しか残せなかったことは認めるとして、地球の反対側にある国同士の間の合同遠隔授業をとにかく実践しようとしてきた老生としては、ちょっと格好つけて言えば、やっと時代が私においついてきたわいとさえ言いたい気分に、昨年前半、束の間、ちらっとなったものでありました。
 しかし、コロナ禍に明け暮れた昨年、そんな浮かれ調子はたちまちにして雲散霧消、したたか遠隔授業及び会議を経験した上での現在の率直な感想を申し上げますと、「やっぱ、これ、体の芯から疲れるし、深いところで心が蝕まれている気がする」ということになります。対面に対して補助的あるいは相補的な方式として遠隔が大いに有効であるばかりか、それ固有のメリットさえあることを喜んで証言しますが、リモートがデフォルトになるような世界には私の居場所はないとひしひしと実感したここ数ヶ月でありました。
 どこにいたって、ネットへの接続環境さえあれば、「その場」に臨場できちゃうって超便利ですよね。でも、そのことは同時に、あなたはここにいなくてもいい、必要なコミュニケーションができれば遠隔で充分、場合によってはあらかじめ録画しておいたものを配信してくれればオッケー、ということです。これが恒常化すると、自己存在の止めどない希薄化をもたらしかねません。画面に映っている〈私〉は私ではありません。二次元空間に平板化され、触れることもできず臭いもしない音声付き動画は私ではありません。〈私〉は私でなくてもいいのです。
 どんな状況でもすぐにぱっと適応できちゃう柔軟な精神をお持ちの方々は、喜々としてこれからの時代を生きてゆかれるのでしょうね。さも最初からこうなることがわかっていたかのように。昭和に精神形成を曲がりなりにも終えてしまい、平成は失意と後悔と諦念に色濃く染められた三十年であった老生はもう駄目であります。このゲーム、降ります。今すぐには降りないけど、どんなに甘く見積もっても、せいぜいあと二年が限度かな。
 今の気持ちを一言で言うと、接続(connexion)は繋がり(lien)ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

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Unknown (franoma)
2021-01-28 05:34:21
いつも記事をありがとうございます。

«リモートがデフォルトになるような世界には私の居場所はないとひしひしと実感したここ数ヶ月でありました» か。それは、
“《歴史的身体》の sanctity”
を実感して生きてきた人には自明なことだと思うのですが…なかなか伝わらず…
解剖学者の養老孟司ファンに
“《歴史的身体》の sanctity”
をキーワードとしてコメントしただけで、
“人権問題に政治を持ち込むな”
と逆鱗に触れてしまいました。

うむ…説明するのは難しいもので…杜甫ほお⁉️徒歩ほ⁉️トホホです。オカシイな…これでOKなハズなのに⁉️

また[不当判決]が出て、慶應ガールズが快哉を叫んで終わりそうです。

añjali=ナマステ=合掌。

どうも、お邪魔しました。
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