内的自己対話-川の畔のささめごと

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世阿弥『遊楽習道風見』における「器用」と「器物」の意味論的差異について(下)

2020-06-30 12:16:01 | 読游摘録

 まず、「器用」と「器物」という言葉が出て来る段落全文を注意深く読んでみよう。

そもそも、器のこと、当芸において、まづ、二曲三体より万曲となる数達人、これ器用なるべし。諸体に渉りて、広態の見勢を一身多風に所持する力道、これなり。二曲三体の見聞、いづれも延感をなして、不増不滅の得益あらん所、これ器物なり。

さて、器ということを、われわれの芸で考えてみると、まず二曲・三体の基礎をかため、次にあらゆる応用風にまでひろまり、どんな曲でも演じえる達人は、すなわち器用だと言えよう。各種各様の行きかたにわたり、広くさまざまの演じぶりを、一身に兼備する力量が、それなのである。二曲・三体で習熟した視覚的・聴覚的な巧みが、その延長線上に在る芸にまで行きわたって、無限の芸術的効果をあげうるのは、まさに、器物というべきである。(小西甚一訳)

 ここだけを読んでも、「器用」と「器物」の意味の違いを明確に捉えることは難しい。大系本には両語についての補注がある。まず、両語それぞれが芸位の段階を示しているとする能勢朝次『世阿弥十六部集評釈』の説を排して、「ほぼ同じ事であり、実質的に差が説かれているとは言えない」とする。その他の解釈の可能性も示しているが、整合性に欠けるという理由でやはり採ってはいない。仕舞には、後続の段落との接続が「唐突」で、そもそも「世阿弥の論法自体に無理があるのであろう」と、世阿弥自身を批判するに至っているが、こう言ってしまっては身も蓋もない話で、解釈の努力の放棄でしかない。
 段階説は確かに採りにくい。しかし、単なる言い換えで、実質的な意味の差はないと言い切れるであろうか。一昨日の記事で見たように、ルネ・シフェールの仏訳では「器」には capacité が、「器用」にも「器物」にも capable が訳語として使われている。これらの使用は、一見すると、実質的な意味の差異を否定する立場を支持しているように思われる。
 ところが、まさにこの capable の語義が別の解釈の可能性を示唆している。6月20日の記事で見たように、capable には、大きく分けて二つの意味がある。「することができる」と「受け入れられる」であり、語源的には、後者の意味が前者に先立つ。アビラのテレサの場合は、霊魂から人間的な「することができる」という働きを追い払わないと、神を「受け入れられない」という仕方で二つの意味が区別される。霊魂本来の受容可能性は、そこにおいて可能な人間的な種々の働きより遥かに広大な「城」だと考えられている。
 もちろん、この区別をそのまま世阿弥のテキストに当てはめることはできない。しかし、この区別は次のような解釈の可能性を示唆しているとは言えないであろうか。
 「用」が働きを示しているのに対して、「物」は、その働きの「場所」を示している。「器用」が実現される芸(の総体)の現勢態を指しているのに対して、「器物」は、諸芸がそこにおいて実現される無限の受容性の場所としての役者の生ける身体を指している。「用」と「物」とは、同じ一つの事柄の二側面であり、したがって不可分である。この不可分性をうちに包んでいるのが「器」という端的な一字である。
 もしこのように解釈することができれば、少なくともテキストの第四部全体をより整合的に読むことができる。
 しかし、昨年末12月30日から今年の1月5日までの記事で七回に渡って『風姿花伝』における「位の差別」の条の解釈問題を取り上げたときに述べたように、内的合理性をもった解釈が最良・最適な解釈とは限らないという問題はどうしても残る。
 今回はこれ以上深入りしない。一つの訳語が原テキストの解釈に意外な光を当てることがありうるという一つの読書経験の記録として読んでいただけたとすれば幸いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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