内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

遙かなる眼差し ― 歴史的想像力について

2013-06-24 21:00:00 | 講義の余白から

 先週金曜日の学部1年の必修科目「日本文明」の追試は幕末が試験範囲。これは学期最後の授業で繰り返し強調しておいたので、学生たちにとっては準備しやすかったはず。実際、4名の受験者の答案のできもよかった。この試験も、6月19日付の記事で話題にした「同時代思想」の場合と同様、すべて持ち込み可。自分のノートだけでなく、どんな資料・道具を持ってきてもいい。最近は授業中もパソコンでノートを取る学生の方が多いくらいだから、彼らはそれをそのまま持ってきてもいい。しかし、できる学生たちは、ただ資料をそのまま持ってくるようなことはしない。ちゃんと数枚のカードに要点をまとめてくるか、パソコン、iPad、スマートフォンなどにデータを整理して持ってくる。そこですでに差がつく。試験時間は1時間だから、山のような資料の中に必要な情報をその場でゆっくり探している時間はない。試験問題は1問。小論文。これも予告済み。知識を問う問題ではない。事実の確認はノートやネットに接続してその場でもできるから、それを写してももちろん点にはならない。では、何を求めているのか。それは、自分たちの文化圏から二重の意味で遥か彼方の、ある時代と場所に自分の身を置いてみて、そこで与えられた問題を自分の力で考えることだ。その際、その時代状況を理解するためには、それを生き生きと蘇らせる想像力も大切な役割を果たす。
 学年最初の授業で、授業の目的を説明するとき、次のようにまず明言する。
 日本の歴史を勉強する場合であっても、歴史上の出来事・人物や年号・地名などを暗記することが目的なのではない。いずれにせよ断片的にならざるを得ないそのような知識を、しかも不正確な仕方で頭に無理やり詰め込んだところで、それがいったい何になろう。試験が終われば、そんな「無益な」情報は君たちの脳からすぐに消去されてしまうではないか。君たちは、歴史の知識が必要な職業に就くことを目指しているわけでもないし、ましてや歴史の先生になりたいわけでもない。それなら何のために歴史を学ばなければならないのか。それは、一言で言えば、自分自身をよりよく知るためなのだ。そのためには、自分とは異なった時代と場所に身を置いてみて、そこで人はどのように考えたのか、と問うてみることが一つの有効な方法になる。なぜなら、それが、自分を日常の時空から解放し、遙かなる眼差しで自分を逆に他者のように見つめ直し、「自分はどこにいるのか」と問い直すことを可能にするからだ。もちろん、それだけが歴史を学ぶべき理由ではない。しかし、他の理由と共に、あるいはそれとは独立に、歴史を学ぶ一つの理由として、誰にとっても挙げうるのは、自らをよりよく知り、よりよく生きるためということではないだろうか。
 以下が追試の試験問題。
「時は幕末。あなたは、倒幕派の藩の一つに生を受けた血気盛んな若き武士、あるいはその武士と結婚したばかりの控え目で賢い妻。ある日、筆頭家老から直々に、欧州への3年間の留学を命じられる。徳川幕府崩壊後の日本のために、どの国に何を学びに行くべきか、忌憚なく意見を具申せよ、との申し付け。留学国と学問分野の選択の理由を明示してこの求めに応えよ。」


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