内的自己対話-川の畔のささめごと

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「道を見失うことを受け入れる」― ヴァンサン・デコンブの対談を読む(3)

2015-06-29 05:47:03 | 読游摘録

 Vincent Descombes, Exercices d’humanité の第一章は、「哲学者になる」(« Devenir philosophe »)というタイトルが付けられていて、同じ対談叢書の他の巻と同じく、対談の主役である哲学者の知的形成過程が、対談相手の質問に答える形で述べられている。同氏のそれが長い道のりだったことを反映してか、他の巻に比べてやや長めになっている。その章の最後の質問は、同氏がその「訓練期間」を通じて身につけた態度に関わる。その質問に答えて、同氏が哲学において特に必要とされることとして強調しているのは、以下のことである。
 「自分が不十分だと感じること」(« se sentir insuffisant »)が哲学には必要だ。そう感じなければ、確かに、進歩はない。何を学ぶにせよ、時には、道を見失い、どっちに向かって進めばよいのかわからないと感じることを受け入れなくてはならない。哲学教育において大きな障害になるのは、ある哲学思想にたちまちに夢中になってしまい、もうすっかり何でもわかったようなつもりになってしまいやすいことだ。
 フランスの教育のいいところとして同氏が挙げる点は、難しい古典的テキストを早い時期から読ませることである(これは哲学には限らない。文学でも、他の人文科学でも同様)。生徒たちは、読んでもよくわからないということをそこで経験する。そのような理解の困難の最初の経験の後、哲学教師になったとしよう。若き教師として教壇に立ち、例えば、カントの『純粋理性批判』の一頁を解説しなければならないとしてみよう。生徒たちは、先生がその頁で言われていることを明らかにしてくれると期待する。彼らにしてみれば、それは当然のことだ。ところが、教師にとって、それはできない相談なのだ。
 教師にできることは、問題領域に道案内の目印を付け、何が問題なのかを規定し、使用語彙を明確化する手ほどきをし、議論のきっかけを与えるところまで。そこで困難が解消されたのではない。しかし、今やその困難ははっきりそれとして認識され、その結果として、無力感は克服される。これが訓練期間の最も大切な経験なのだ。「もっとずっと遠くまで行こうと期待してはならない」(« Il ne faut pas espérer aller beaucoup plus loin. »)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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