内的自己対話-川の畔のささめごと

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一期一会と独座観念 ― 当代一流の文化人としての井伊直弼

2021-02-24 08:13:09 | 読游摘録

 井伊直弼の名を聞いて、まず何を思い出すだろうか。現在、高校の歴史の授業でどのように教えられているかは知らないが、例えば、山川出版社の『詳説 日本史B』(2012年版)には、「公武合体と尊攘運動」と題された節で、安政の大獄と桜田門外の変に言及されている箇所にその名が見られるだけである。これだけでは、尊王攘夷派に対して強圧政治を断行し、挙げ句に暗殺された大老という悪役の印象しか残らない。参考書類でも、多少前後の経緯が詳しく叙述されている程度で、井伊直弼のネガティブな印象を覆すほどではない。
 しかし、『日本大百科全書』『世界大百科事典』『国史大辞典』などを見ると、多少その印象が変わってくる。
 『日本大百科全書』には、徹底した弾圧を行った理由説明として、「直弼の論理は大政委任を受けた幕府が「臨機の権道」をとるのは当然で、「勅許を待ざる重罪は甘んじて我等壱人に受候決意」(公用方秘録)というにあった。しかし、直弼のこの弾圧政策は、1860年(万延1)3月3日の桜田門外の変として彼の横死を招いたのである。井伊直弼の評価は「不忠の臣」とか「開国の恩人」など、時代によって大きく振幅がある。」
 『世界大百科事典』は、安政の大獄に至る政治的経緯をかなり詳しく叙述し、桜田門外の変に触れた後、「直弼は,国学,古学,兵学,居合,茶道,和歌などにも,すぐれた才能を発揮した。とくに茶道は,石州流を学んでみずから一派を立て,著書に《茶湯一会集》《閑夜茶話》があり,茶道の号を宗観という。また歌集《柳廼四附(やなぎのしずく)》がある」と締め括っている。
 『国史大辞典』には次のような記述がある。「江戸滞在中、『埋木舎の記』を草し、北の御屋敷を埋木舎と名づけ、文武諸芸の修業に励んだ。居合術では奥義をきわめて一派を創立するほどの腕前となり、禅では清凉寺の仙英禅師より悟道の域に達したといわれた。石州流の茶道では、片桐宗猿について奥義をきわめて一派を立て、藩主になってから代表作『茶湯一会集』を著わした。同十三年十一月本居派の国学者長野義言とめぐりあい、義言と師弟の契りを結んで以来、国学の研究に没頭した。」直弼は、文武に優れた知識人としての素養を青年期に十二分に身に付けていたことがわかる。
 井伊直弼が当代一流の茶人であったことは、茶道を知っている人にはよく知られたことであり、茶道を知らない人にもよく知られた「一期一会」という言葉は、『茶湯一会集』(直弼三十歳頃に成立)の冒頭で直弼が初めて使った言葉とされている。この言葉に込められた茶の湯の要諦そのものは直弼のオリジナルではなく(そのことは直弼自身が本文中で認めている)、『山上宗二記』の中の「常の茶の湯なりとも、路地へ入るから立つまで、一期に一度の参会の様に、亭主を執して威づべきなり」に由来する。これを「一期一会」という四字漢語に凝縮したのが井伊直弼である。
 『茶湯一会集』の中の最もよく知られた一節は、しかし、いわゆる独座観念を語っている箇所である。「決して客の帰路見えずとも、取りかた付急くべからず」(帰る客の後ろ姿が見えなくなっても、絶対に片づけを急いではいけない)という名言を含んだ一節は、現在のコロナ禍の渦中で読むとき、一際味わい深い。ゆっくりと原文を読んでみよう。

主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終れば、客も露地を出るに、高声に咄さず、静にあと見かへり出で行かば、亭主は猶更のこと、客の見へざるまでも見送るなり。さて、中潜り・猿戸、その外戸障子など、早々〆立などいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決して客の帰路見えずとも、取りかた付急くべからず、いかにも心静かに茶席に立ちもどり、此時にじり上りより這り入り、炉前に独坐して、今暫く御咄も有るべきに、もはや何方まで参らるべきや、今日一期一会すみて、ふたたびかへらざる事を観念し、あるいは独服をもいたす事、これ一会の極意の習なり、この時寂寞として、打語らふものとては、釜一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいたりがたき境界なり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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