内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「痛み douleur」と「苦しみ souffrance」とを質的に区別する ―『ケアとは何か』のよりよき理解のために

2024-09-28 23:59:59 | 講義の余白から

 先週の水曜日の演習で導入した第三の「補助線」は、「痛み douleur」と「苦しみ souffrance」との質的な区別である。この問題は私にとって三つの「補助線」のなかでもっとも重要な考察主題である。
 実際、この問題については、2019年5月12日から6月10日にかけて「受苦の現象学序説」と題した30日連続の連載のなかでかなり立ち入って考察している。しかし、実のところは、主にルイ・ラヴェル(Louis Lavelle, 1883-1951)の Le Mal et la souffrance (1940) の注解という形に終始し、「受苦の現象学序説」はそこで中断したままになっている(このブログはそんなのばっかりですけどね)。それに、その時点ではケアの問題はまったく視野に入っていなかった。 
 今回、演習で特に取り上げたのは、「痛み」と「苦しみ」の質的違いがどのように医療・看護・介護さらにはもっと広い意味でのケアと関わるのかという論点である。ただ、その際に上掲の連載時に考えたことが暗黙の前提になってはいる。
 以下、その連載の中から「痛み」と「苦しみ」の質的違いを考察するにあたって重要だと思われるいくつかの対比点・関係性を抽出してみる。

痛みは「被る」(subir)ものである。それに対して、苦しみは私が為している行為(acte)である。
痛みは、たとえ持続する場合でも、本来的に非連続なものである。それに対して、苦しみはつねに持続的なものである。
私たちは自分が無関心でいられる対象について苦しむことはない。
痛みは善悪に関わらないが、苦しみは善悪に関わる。
痛みに苦しむことを通じて自己のより深い現実が開示されることがある。

 痛みには、その箇所・原因・程度等に応じて、一定の合理的な処方によって緩和・鎮静が可能であるという客観的共通性があるが、苦しみは苦しむ人それぞれにとって個別的であり、その個別性に応じた対応が必要である。苦しみはその解消あるいはそこからの解放が必ずしも最終目的とはならない。苦しむことを通じて人は自分にもそれまで隠されていた未知の自分と出遭うことがある。