内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

命の終わりのはじまりの迎え入れ方をこれから学んでいくことになるのだろう

2024-04-18 00:00:00 | 雑感

 小さな頭の中で無い知恵絞って数日間考え続けるという甚だ不健康な苦行を己に強いると呼吸困難に陥ります。これは喩えではありません。喉から気管支のあたりにかけて、ほんとうに苦しくなるのです。そうなると、もはや集中して思考することができません。仕事の手を安め、深呼吸を繰り返し、胸のあたりの締めつけるような苦しみが収まるのを待ちます。これは一昨年まではなかった身体反応です。
 今年の一月に経験した「大患」の後、体が少しずつ壊れつつあるのかなという感覚が生まれました。この崩壊感覚はおそらく不可逆的に進行するでしょう。この内感は、身体についての気がかりではなく、いわば実存的な覚悟です。
 普段の暮らしに不都合があるほどの身体的困難は幸いなく、相変わらずジョギングは毎日続けております。ただ息が苦しくなったときは、すぐにウォーキングに切り替えています。距離だけでいえば、先月は440キロ以上走り、これは私にとって月間最高記録です。今月もラ・ボルド滞在中以外は毎日走っています。
 いずれにせよ、これまでほぼ「故障ゼロ」で本当によく働き続けくれた体がこれからは徐々に壊れていくのでしょう。これは不可避ですよね。
 そんな崩壊過程に入った自分の体とどう付き合っていくかという注意と配慮と世話がこれからは日々心の少なからぬ部分を占めていくのでしょう。
 だからといって、自暴自棄なるということはなく、老いをかこつこともなく、運命を呪うということもありません。それは罰当たりというものでしょう。
 あっ、そうそう、酒量は減りました。減らしたのではなく、自ずと減ったのです。以前より少ない量で、「今日はこれくらいでやめておこう」という気に自然になったのです。これは僥倖と言っても過言ではありません。
 くだくだしく書きましたが、現在の身体に対する感覚を一言で言えば、「ああ、いらっしゃいましたね。お待ちしていました。でも、正直なところ、どうおもてなしすればよいのかまだよくわかっておらず、不調法もしでかすかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします」とでもなりましょうか。