内的自己対話-川の畔のささめごと

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ラ・ボルド病院訪問記(5)モノの修理が親密な時空を開くきっかけとなる

2024-04-06 17:19:41 | 雑感

 Nicolas Philibert のドキュメンタリー映画 La machine à écrire et autres sources de tracas はとても面白かった。パリ市内に居住する精神疾患を患う人たちの四つのエピソードからなるオムニバス形式。全部で一時間十二分。彼らのアパルトマンをさまざまな修理業も請け負う看護補助師二人が訪れ、彼らが普段使っている機器(タイプライター、CDプレイヤー、プリンター等)の修理を行う場面とその直後の両者のやり取りを記録したドキュメンタリー映画である。私がこれまで観たことのあるドキュメンタリー映画とは異なった手法が使われていることが特に興味深かった。
 ドキュメンタリー映画は、通常、撮られる側がカメラを意識しないように極力努力する。そのためには撮られる側が撮られていることを意識しなくなるまで待たなくてはならない。そうなってからほんとうにカメラをまわし始める。そうなるまでにはかなりの時間がかかる。
 ところがこのドキュメンタリー映画はまったく逆の手法なのだ。上映後、監督と会場との質疑応答が一時間近くあったのだが、それがまたすこぶる面白く、そのやりとりのなかで監督がそれぞれのエピソードの撮影は半日ほどだったと言ったときにはほんとうに驚かされた。
 もちろん事前の相談はあったにせよ、そして撮影を断られたケースも多々あったにせよ、撮影当日に機材を担いだ監督とスタッフが彼らの部屋をいきなり訪れた。スッタフとはいっても一人か二人である。実際、アパルトマンの狭さからいってそれ以上は入れない。
 もう一つ、私にとっての発見だったのは、撮影する監督とカメラがドキュメンタリーの一部を成していることだった。撮られている側がカメラ目線だったり、カメラを回している監督を見たり、監督と言葉を交わしたりしているのだ。つまり、ドキュメンタリー映画のなかに監督と彼が回すカメラも組み込まれているのだ。これは私には新鮮だった。
 それぞれのエピソードは当人たちのアパルトマンのなかという狭い空間のなかでの修理や整理の対象であるものをめぐっての会話に尽きる。が、修理がうまく行った後、あるいは整理の段取りに合意が成り立った後、住人と訪問した介護師たちとの会話がそれ以前の会話のトーンと明らかに異なっていることが鮮やかに記録されていた。
 在宅訪問という「新しい」療法形態の「客観的」記録ではない。撮る側もドキュメンタリーの現実に参加しているのだ。小さな親密な時空のなかで関係の変化が発生する機微をよく捉えた秀逸な作品だと私は思う。