内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(八)― 慰戯という生の自己逃避を越えて進むには

2023-10-17 23:59:59 | 哲学

 生の動性はまず不安定と倦怠として現れ、次に慰戯として現れる。「人間の本性は常に往くことではない、それは往と還とをもっている」(« La nature de l’homme n’est pas d’aller toujours. Elle a ses allées et venues. » S61, L27, B354 )。この往と還とのうちに成立する人間的存在の運動は、それ自体においては単なる永久の繰り返しである。どうすればこの悪しき無限から解放されるのか。「慰戯の段階を越えて進むべきものは、生の自己避難を征服して何らかの意味で生の自然に還り自己を回復するものでなければならない」(37-38頁)。しかしながら、それは元の自然に帰ることではない。
 ここで三木は、元の自然と自然性という区別を『パンセ』の断章(S563, L684, B21)を参照しながら導入する。前者を la nature に、後者を le naturel にそれぞれ対応させているが、このような区別が件の断章から導き出せるわけではない。パスカルは、人間の技巧(art)が自然の諸々の真理に無理強いした階層化を「自然ではない」と批判してはいるが、悪しき無限を抜け出して立ち戻るべき生の自然性なるものを目標として掲げているわけではない。自然の諸真理を人間の技巧から解き放って、それぞれ元の場所に戻すべきだというのが断章の言わんとしていることだと思われる。
 あらゆる慰戯は技巧である。技巧は真理を歪める。あるいは隠蔽する。技巧なしに本来の自然をあるがままに見ることは難しい。