内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三木清の「所有」とホワイトヘッドの「包握」― ドゥルーズを介しての連接

2023-10-13 23:59:59 | 哲学

 10月9日の記事で、三木清の『パスカルにおける人間の研究』のなかの「所有」という言葉の使い方にちょっと因縁をつけた。
 そのときから possession ということが気になりだした。そういえば Philosophie des possessions (Didier Debaise (éd.), les presses du réel, 2011) という論文集を三年前に購入してあったのを思い出した。編者による序文のなかにドゥルーズの『襞』からの引用がある。「出来事とは何か」と題されたホワイトヘッド論のなかの一節である。

C’est autre chose qu’une connexion ou une conjonction, c’est une préhension : un élément est le donné, le « datum » d’un autre élément qui le préhende. La préhension est l’unité individuelle. Toute chose préhende ses antécédents et ses concomitants et, de proche en proche, préhende un monde. L’œil est une préhension de la lumière. Les vivants préhendent l’eau, la terre, le carbone et les sels. La pyramide à tel moment préhende les soldats de Bonaparte, et réciproquement.
                                                                                                                                      Le Pli. Leibniz et le Baroque, Minuit, 1988, p. 105-106.

これは連結や結合とはまた別のものであり、包握である。ひとつの要素はあたえられるものであり、それを包握するべつの要素にとっての「データ」である。包握とは、個体的(個別的)な統一である。あらゆるものはそれに先行するもの、それに付随するものを包握し、徐々にひとつの世界を包握する。目は光の包握であり、生物は水、大地、炭素、塩などを包握する。あるときピラミッドはナポレオンの兵たちを包握し、また兵たちはピラミッドを包握する。

 この一節が中村昇氏の『ホワイトヘッドの哲学』(講談社選書メチエ、2007年)にも引用されている。その少し先で中村氏は「包握」(prehension)についてこう説明している。

 われわれは、ほかのさまざまなものを知覚し認識する。知覚や認識することによって、逆に自分のあり方もきまるといっていいだろう。まわりの風景を見て、自分の位置を確認するようなものだ。もし、自分の周囲になにもなければ、自分自身もなくなってしまうにちがいない。そういう意味でわれわれは、環境のなかの対象を知覚し認識することによって存在しているともいえる。
 しかし、実際に認識などしなくても、まわりにあるさまざまなものによって、自分自身の位置やあり方が決まっているのもたしかだ。べつに意識しなくても、全宇宙を背景にして、自分という存在の位置は確定し、そのあり方もおのずと決まる。このような認識の有無とはかかわらない、自分以外の環境世界との関係の仕方を、ホワイトヘッドは「包握」と呼ぶのだ。

 三木清が「所有」をこの「包握」と近い意味で使っていたと考えると、『パスカルにおける人間の研究』の件の一節に対する違和感もかなり減少する。