内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

愚か者の愚かならざる発言について ― モンテーニュ『エセー』第三巻第八章「話し合いの方法について」より

2023-10-12 09:05:52 | 読游摘録

 昨日の記事で引用した『パンセ』の断章は、モンテーニュの『エセー』第三巻第八章「話し合いの方法について」の一節を下敷きにしており、それをパスカル流にアレンジしたものである。それだけに二つの文章を読み比べてみると両者の性格の違いよくわかる。モンテーニュにはどこか暖かいユーモアが感じられる。長いが当該箇所を白水社版『エセー』の宮下志朗訳で引用する。はじめの方に出てくる「所有しているわけではなくて」は、原文では « ils ne possèdent pas » となっており、やはり posséder という動詞が使われている。 

 われわれは毎日のように、愚か者が愚かならざる発言をするのを聞かされている。うまいことを口にするけれども、どこまでわかっているのか、どこから借用に及んだのか、はっきりさせようではないか。彼らはそうした名文句とかみごとな理屈を所有しているわけではなくて、それらを借りて預かっているにすぎない。そして、彼らがそれらを使うのに、われわれが手助けしているのだ。彼らは手探り状態で、ひょっとするとそれらをたまたま口に出したのかもしれない。それにお墨付きを与え、もてはやすのは、われわれのほうなのだ。いいですか、あなた方が彼らに手を貸しているのですよ。でも、それがどうなります? 彼らはあなた方に感謝するわけでもなし、かえってそのせいで、ますますくだらない人間になっていくばかりなのです。連中を助けることなどやめて、好き勝手にさせればいいのですよ。手ひどい目にあわないかと恐れて、その主題をこわごわ扱うに決まってますよ。その位置や光線の具合を変える勇気もなければ、深く掘り下げる度胸もないのですからね。主題を、ほんの少しだけ揺さぶってやればいいんですよ。そうすれば、その主題は連中のところから転げ落ちるに決まってます。連中は、それがいかに強く、美しいものであっても、あなた方に譲るしかないのです。りっばな武器だって、取り扱いはむずかしいのですから。このわたしなど、何度も何度もそういう経験をしているのです。
 ところがである。あなたがわざわざ論点などを解明し、立証してやったりすると、すわ大変、ただちにあなたのこのおいしい解釈を奪い取り、「いやあ、わたしもそういいたかったんですよ。わが意を得たりとは、まさしくこのことですな。わたしがそう述べなかったのは、うまい言い方が見つからなかっただけなんです」などとのたまうのだ。ああ、まったく、あきれた言いぐさだ。こういう威張りくさった愚かさを矯正するには、意地悪だって使わないと割が合わない。「憎んだり、非難してはいけない。教え諭すことが必要だ」というヘゲシアス〔前三世紀の雄弁家〕の教えは、ほかの場合には正しい。けれども、助けてやっても知らん顔の半兵衛で、かえって悪くなるだけの人間を助け起こすのは、まちがっているし、不親切だ。わたしは彼らを泥沼にどっぷりつかるがままにさせて、いま以上に悪あがきさせ、可能ならば、もっと深みにはまらせて、最後には自分の非を自覚させてやりたいと思う。