内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(三)―「中間的存在」としての人間

2023-10-04 06:52:09 | 哲学

 「およそ我々の存在は『自然における存在』である」と書き起こされた段落で三木が参照しているのは、『パンセ』のなかでもっとも長く、文章としての完成度がもっとも高い断章(S230、L199、B72)である。
 とくに「中間者」(milieu)という人間の規定に注目している。

人間が中間者であるということはこの存在にとって偶然な規定ではなく、被造物としての運命を担う人間の必然的なる状態に属する。中間者の名は人間性そのものに対する基本的なる表現である。我々が中間的存在であるということは、我々が自然における存在であるという否み難き事実と共に与えられたところの存在上の特性である。(14-15頁)

 「中間者」が原文では milieu に対応することを三木自身が示しているから、三木は中間者をそれ自体で存在する実体と見ていないことは明らかだ。いつも何かの間に置かれて揺れ動いている「状態」としての人間が中間者である。「中間的存在であることに即して、恐怖や戦慄、驚愕や感歎は我々の存在そのものに属する」(16頁)。「普通には情緒もしくは感情と見なされているこれらすべてのものは、[…]人間の存在論的なる原本的規定である」(16-17頁)。
 この「中間」は、「中心」でも「中央」でも「中道」でもなく、ましてや「中庸」ではない。

Car enfin qu’est-ce que l’homme dans la nature ? Un néant à l’égard de l’infini, un tout à l’égard du néant, un milieu entre rien et tout, infiniment éloigné de comprendre les extrêmes, la fin des choses et leur principe sont pour lui invinciblement cachés dans un secret impénétrable (que pourra-t-il donc concevoir ? il est), également incapable de voir le néant d’où il est tiré et l’infini, où il est englouti. (S230, L199, B72)

なぜなら、そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。両極端を理解することから無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対しては立ち入り難い秘密のなかに固く隠されており、彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がそのなかへ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである。(前田陽一訳)

 塩川訳では、 « Un néant à l’égard de l’infini » が「全体に対しては虚無」、 引用の最後の « il est englouti » が「呑み込まれていく」 となっていたので取らなかった。遅かれ早かれ無限に「呑み込まれていく」のではなく、今すでに、いや、虚無からひきだされたときからすでに、無限に「呑み込まれている」のが milieu にしか存在し得ない、milieu でしかありえない人間の存在様態なのだとパスカルは言っているのではないだろうか。