内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

溢れ出る情念に筆が追い付かない ―『日蓮の手紙』より

2021-10-06 06:04:43 | 読游摘録

 昨日引用した日蓮の手紙の直前の箇所についての植木雅俊氏による解説がとても興味深い。
 この手紙には、体調が勝れない中で、心に思い浮かぶ熱情あふれる思いを、そのまま筆に託して一気に書いた様子が窺われる。その証左として、植木氏は、主語と述語の関係のズレを指摘している。述語が受動態であるべきところが能動態になっている。それに、その文は、鬼神に語りかける形になっているのに、その直後の文は南条時光に語りかける文になっている。
 このように文章の始まりと終わりで能動と受動が逆転したり、主語がいつの間にか入れ替わってしまったりする文体は、佐渡の地で込み上げる思いを一気に書き上げた『開目抄』で頻繁に見られるという。溢れ出る情念に筆が追い付かず、込み上げる思いが先行して、文章の後半を筆で書いているときには、思考のほうは次の文章に移っている。その結果として、文章の終わりのほうでは、はじめの方とズレが生じてしまう。植木氏は、「ここに日蓮の慈愛あふれる熱情の一端を垣間見る思いがして、抑えがたい感動を覚える」と記している。
 現代の私たちは、キーボードを叩いて文章を作成することが圧倒的に多くなった。思考の速度に筆が追い付かないという経験はほとんどなくなり、思考の速度と文章作成の速度がほぼ一致している。筆記用具や用紙の物理的制約を受けずに思いのままに綴ることができるようになり、思考が物の抵抗をそれだけ受けなくなった。アプリケーションが自動的に文章を修正してくれたり、修正案を示してくれたりさえする。瞬時にして世界中どこにでもメールを送信できる。これは確かに人類が以前には経験したことのない超便利な世界だ。私がこうして毎日ブログの記事を短時間で綴り、発信できるのもICTのおかげだ。
 しかし、そのことは私たちの言葉に込められた思いや考えがそれだけ豊かになったことを直ちには意味しないだろう。