内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新渡戸稲造『武士道』における Veracity について(二)

2021-10-08 18:05:22 | 読游摘録

 今日の記事は、『武士道』第七章の英語原文で veracity が使われている箇所と、その四つの日本語訳を並べただけである。それらを眺めただけでも、どの訳にも問題があることがわかるだろう。個々の箇所についての検討は明日以降の記事に譲る。

Without veracity and sincerity, politeness is a farce and a show.
(矢内原)信実と誠実なくしては、礼儀は茶番であり芝居である。
(奈良本)真実性と誠意がなくては、礼は道化芝居か見世物のたぐいにおちいる。
(山本)信 veracity すなわち誠 sincerity がなければ、礼は茶番や見世物になってしまう。
(大久保)信用と誠実がなければ礼も茶番や見世物になってしまう。

The bushi held that his high social position demanded a loftier standard of veracity than that of the tradesman and peasant.
(矢内原)武士の高き社会的地位は、百姓町人よりも高き信実の標準を要求した。
(奈良本)武士は自分たちの高い社会的身分が商人や農民よりも、より高い誠の水準を求められていると考えていた。
(山本)武士は、みずからの社会的地位の高さゆえ、商人や農民よりも高い水準の信を要求されると考えた。
(大久保)武士は、高い社会的地位にある以上、商人や農民より高い信頼を求められるものと心得ていた。

The regard for veracity was so high that, unlike the generality of Christians who persistently violate the plain commands of the Teacher not to swear, the best of samurai looked upon an oath as derogatory to their honour.
(矢内原)信実を重んずることかくのごとく高く、したがって真個の武士は、誓いをなすをもって彼らの名誉を引き下げるものと考えた。この点、一般のキリスト教徒が彼らの主の「誓うなかれ」という明白なる命令を、絶えず破っているのは異なる。
(奈良本)「誓うことなかれ」というキリストの明らかな教えを絶え間なく破っている大方のキリスト教徒とちがって、真のサムライは誠に対して非常に高い敬意を払っていた。
(山本)信は、このように重んじられたので、真のサムライは誓いをなすこと自体がみずからの名誉を損なうものと考えた。この点、一般のキリスト教徒が、彼らの主の「誓うなかれ」という明瞭な命令を絶えず犯しているのとは異なる。
(大久保)信用という事は大変重んじられたので、大半のキリスト教徒が誓うなかれという主の明らかな命令を始終破っているのとは違って、まともな侍はむやみに誓ったりすることを名誉にかかわるとみなしていた。

I own I am speaking now of the Bushido idea of veracity.
(矢内原)私は今武士道の信実観を語りつつあるものなることを承知している。
(奈良本)私は今、すでにおわかりのように、武士道の誠の理念について述べている。
(山本)今、私は、武士道の信の概念について述べていることはわかっている。
(大久保)ここでは信用についての武士の考え方を述べているわけだが、……。

Now you may ask, “Why could they not bring their much boasted veracity into their new business relations and so reform the old abuses?”
(矢内原)そこで諸君は問うであろう、「何故彼らはその大いに誇りとせる信実をば彼らの新しき事業関係に応用し、それによって旧弊を改良し能わざりしや」と。
(奈良本)ここで読者は「彼らは、なぜあの素晴らしく、みずから誇りとしていた誠を新しい事業にもちこみ、古い悪弊を手直しすることができなかったのか」とたずねられるだろう。
(山本)そこで読者は尋ねるだろう。「なぜ彼らは、みずからその大いに誇りとした信を、新しい事業に持ち込んで、旧弊を改めることができなかったのか」と。
(大久保)「それなら」と問われるかもしれない「侍たちは何故、誇りとする信用を新たな事業取引にもちこんでこれまでの弊害を改めることができなかったのか」。

Of the three incentives to veracity that Lecky enumerates, viz., the industrial, the political, and the philosophical, the first was altogether lacking in Bushido.
(矢内原)レッキーの数えたる信実の三つの誘因、すなわち経済的、政治的、および哲学的の中、第一のものはまったく武士道に欠けていた。
(奈良本)レッキーは誠がはたらく三つの要因をあげている。すなわち産業、政治、哲学の三つである。第一の産業の局面においては武士道は存在しえない。
(山本)アイルランドの歴史家レッキーによれば、信が成立する三つの誘因は、経済的、政治的、哲学的なものである。その第一のものが、武士道にはまったく欠けていた。
(大久保)信用ということの動機となる三つの要素として歴史家レッキーがあげた産業的、政治的、哲学的要素のうち最初のものが武士道にはまったく欠けていたのである。

Lecky has very truly remarked that veracity owes its growth largely to commerce and manufacture.
(矢内原)信実はその発達を主として商工業に負う、とレッキーの言えるは極めて正しい。
(奈良本)レッキーが「誠はその成長を主として商業と工業に負っている」といったことは、まことに正しい。
(山本)信はその発展を主として商工業に負う、とレッキーが言うのはまったく正しい。
(大久保)信用ということが発達したのは商工業に負うところが大きいというレッキーの指摘はまったく正しい。

Without this mother, veracity was like a blue-blood orphan whom only the most cultivated mind could adopt and nourish.
(矢内原)この母(=近世産業)なくしては、信実は素性高き孤児のごとく、最も教養ある心のみこれを養い育てるをえた。
(奈良本)近代産業という母がなければ、誠はもっとも高い教養の持ち主だけが養子として育てることができるような、名門の生まれの孤児のようなものであった。
(山本)母のない信は、もっとも教養のある人々だけが養育できる高貴な生まれの孤児のようなものである。
(大久保)この養母がいなかったら、信用は最も教養ある精神だけがひきとって育てることのできる孤児の貴公子となったことだろう。

Industries advancing, veracity will prove an easy, nay a profitable virtue to practise.
(矢内原)産業の進歩するにしたがい、信実は実行するに容易なる、否、有利なる徳たることが解ってくるであろう。
(奈良本)産業が発達するにしたがい、誠は実践にやすい、むしろ実益のある徳行であることが明らかになってきた。
(山本)産業が発達するにつれて、信は実行することが簡単な、いやそれどころか有益な徳であることがわかってくるだろう。
(大久保)産業が発達していけば、信用は実行するのに容易なばかりか、利益をもたらす徳であることがわかってくるだろう。

Often have I wondered whether the veracity of Bushido had any motive higher than courage.
(矢内原)武士道の信実は果たして勇気以上の高き動機をもつやと、私はしばしば自省してみた。
(奈良本)私はしばしば、武士道の誠が勇気以上の高い動機をもつかどうかを考えた。
(山本)私は、武士道の信が勇気以上の高い動機を持つだろうかと、しばしば自問してみた。
(大久保)私は武士道において勇気以上に信用がより高い動機づけとなったことはないかとしばしば思ったものだった。