内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

小田幾五郎 ― 近世日朝交流に通詞として一生を捧げた男(上)

2021-10-01 23:59:59 | 読游摘録

 近世日朝交流史料叢書Ⅰ『通訳酬酢』(ゆまに書房 田代和生編著 2017年)は興味尽きない第一級の史料だ(書名に「酢」と入れたが、実は正しくない。正しくは、旁は「作」としなくてはならないが、フォントが見つからなかった。手元の五冊の漢和辞典にも載っていなかった。ネット上の書店の本書の書名もみな「酢」で置き換えられている。「酬酢」とは、「主人と客とが互いに酒をすすめあう。杯のやりとりをする」(『新明解現代漢和辞典』)こと。
 以下、編著者である田代和生氏の解説からの摘録である。
 著者である小田幾五郎は、宝暦五年(一七五五)十一月二十八日に生まれ、天保二年(一八三一)十月二十二日数え年七十七歳の生涯を終える。二十五歳で稽古通詞に取り立てられる。
 近世初期の小田家は、朝鮮渡航権を知行地代わりとする小送使の所務権を宛てがわれ、朝鮮貿易に従事していた。この小送使所務権は一六三五年に廃止されるが、六十人商人はそれまでに蓄積した資金を元手に、藩内の有力商人として多くの経済的活動を展開した。わけても「古六十人」家は別格扱いで、藩の朝鮮貿易経営に直接かかわる元方役、町代官、別町代官、請負屋などに任命されたり、あるいは町役として重要な町手代、八人役、乙名役、年行司などを数多く輩出するなど、藩の経済行政面と深くかかわる者が多かった。
 幾五郎の祖父五郎右衛門の代になって、小田家は突然の悲劇に見舞われる。対馬府中に二度に渡って大火災が発生し、小田家は多くの財産を失ってしまった。幾五郎の父藤八郎は、十歳の時にこの大火に遭遇し、いらい貧困の時代を過ごさねばならなかったという。そして、それを契機として、小田家は六十人商人が優遇されていたもうひとつの職業、すなわち専門の通詞職への道へと大きく舵をきることになる。
 対馬藩における朝鮮語通詞の身分は商人であり、必要に応じて藩が通詞として雇い上げていたに過ぎない。特に貿易業務にたずさわる六十人商人にとって、朝鮮語は家業を継ぎ、発展かつ栄達するために必須条件であった。このため家ごとに幼少の時分から朝鮮語の特訓を行い、商売のために朝鮮語能力の習得に努めており、この点においては「古六十人」家としての小田家も例外ではない。
 小田幾五郎の母もんは一族の小田善右衛門の娘であるが、この善右衛門は亨保四年(一七一九)来日した通信使の随行通詞として江戸に赴いている。あるいはこの母方の祖父が、将来通詞となる幾五郎に大きな影響を与えたのかも知れない。『通訳酬酢』の冒頭に、「明和四年、私はまだ前髪ながら朝鮮草梁の和館に渡った」とある。明和四年は幾五郎が十三歳の年で、元服前から現地留学の形で朝鮮語の特訓を受けていたことがわかる。「古六十人」の小田家の一員として、朝鮮語通詞小田幾五郎の人生はすでに始まっていた。