明日発売される『現代思想』2021年1月号「特集=現代思想の総展望2021」に、「他性の沈黙の声を聴く」というタイトルの論文を寄稿いたしました。そのおよその内容は、このブログでの今年八月の連載「植物哲学序説 ― 植物の観点から世界を見直すとき」と重なりますが、最終節ではシモンドンの技術論に若干説き及んでおり、その分、議論に新たな展開を与えております。お時間があるときに書店あるいは図書館等でご笑覧いただければ幸甚に存じます。
昨日の記事で話題にした大貫隆の『グノーシスの神話』の「結び」の最終節である「グノーシス主義を超えて」からに示された、グノーシス主義的な時代としての現代についての著者の所見を以下に摘録し、若干の私見をその後に付す。
グノーシス主義は、その至高神が実は人間の本来の自己の別名に過ぎないのであるから、「絶対的人間中心主義」とでも呼ばれてしかるべきである。そしてこれは、一方で現実の世界の過酷さから多かれ少なかれ逃避したい欲求に駆られるものの、他方はだからと言って人間を絶対的に超える超越神を信じることもできずにポストモダンの現在を生きている者たちには、まことに心地よいメッセージなのではないだろうか。ブルーメンベルクが近代によって超克されたと考えたグノーシス主義の傷痕は、ポスト近代の現在になって再び痛み始め、見過ごせない症候群となって現れているように思われる。この意味で現代はグノーシス主義的な時代なのである。
しかし、グノーシス主義の独我論あるいは絶対的人間中心主義でゆく限り、現実の世界はわれわれにとって課題であることを止めてしまう。世界は人間の本来の自己の仮の宿であり、本来の自己という光の断片が回収されるべき舞台ではあっても、救済の対象にはならないからである。しかし、前述のような近代合理主義が生み出した地球規模での行き詰まり、「終わりなき日常」の荒涼たる原風景を前にして、何かが違う、どうすればいいのかと自問しないで済ませられる者は少ないであろう。
コロナ禍に明け暮れた2020年は、いわば「終わりなき非日常」に世界が苦しめられた一年だった。しかもまだ終息には程遠い。この間、私たちはかつての「日常」に戻りたいと願ってきた。しかし、それはもう不可能だろう。それに、そもそもその日常は本当に望ましい日常だったのだろうか。「終わりなき日常」という慢性化したグノーシス主義症候群にただ無自覚だっただけではないのか。今回のコロナ禍はいつか終息するだろう。しかし、より深いところで現代社会を蝕み続けているグノーシス主義症候群への有効な治療法はいまだ見出されていない。いったい誰がその研究開発に取り組んでいるのだろうか。それさえ定かではない。