今、みんな苦しくて、うつむきがちだ。前に進めなくて、意気阻喪しそうだ。そんなとき、「頑張れ」は禁句だ。でも、どうか志は失わないでほしい。
授業で読んだ藤田省三の「維新の精神」の以下の一節を再読してください。佳き昔を懐かしむためではなく、今を生きるための精神的エネルギーをチャージするために。
実際には横断的議論は普通のこととなっていった。だがそうした傾向はそこに止ったのではない。他のあらゆる場合と同じく、横への議論の展開は横への行動の展開を伴う。「横議」の発生は「横行」の発生をもたらした。藩の境界を踏み破って全国を「横行」するものが増大していった。すなわち「脱藩」の浪人が「浮浪」し始めたのである。もはや浪人とは可哀想な失業者だけではない。「勝手な」議論を提げて、論争に連絡にと飛び廻るもののことでもあった。むしろ彼等は、そうするために「脱藩」したのであった。いわばそれは意識的な浪人であり、積極的な浪人であった。旧浪人のように社会体制からおし出されたものではなくて、旧社会を自ら飛び出したのであった。彼らにとっては浪人とはもはや憐まれるべき存在ではなくて誇らしき存在であった。幕府に代って「天下国家」を担うべきものであったからである。かくして「身分」によることなく「志」のみによって相互に判断し結集する「志士」が生れそれは紆余曲折を経ながらも、ネイション・ワイドの連絡を曲りなりにも作ることとなった。旧社会の体内に新国家の核が生れたのである。維新の政治的一側面はこの時誕生したと言ってもよい。そうして注意すべきは、そうした横の結集は決して「尊皇倒幕」の「志士」のことだけではなかったという点である。「佐幕派」の「志士」もまた同様な社会的課題を実現しつつあったのである。いずれも、「封建の範囲を超越して」自らの選択によって行動していたのだ。幕末維新の「真の」戦いは、こうした「敢て封建君主の命によりて動くにあらずして自ら動きたる」両派のものの間に行われたのであった。