今日の記事のタイトルの前半、わけわかりませんよね。こんな表現がどこかで使われているのかどうかさえ、浅学菲才の権化である私は、知りません。こんな表現を使って、私は、何が言いたいのか。諸方にさしさわりのない範囲で、この問いに答えようと思います(と言うところからして、腰砕けで、もう駄目なのですが)。
懐疑原則とは、何も大げさな話でも特別な説でもなく、「人を見たら泥棒と思え」という行動指針のことです。一言で言い換えれば、性悪説です。これを大学に当てはめると、「学生を見たら、カンニング(あるいはなんらかの不正)をすると思え」となります。試験のためには、この原則に従い、カンニングあるいはその他の不正が最も発生しにくい方式を選択するという、きわめて現実主義的な帰結が論理的に導かれます。状況の如何にかかわらず、です。
もうおわかりだと思いますが、信頼原則は、その反対です。「人は信頼には信頼で応えてくれる」という楽天主義です。一言で言い換えれば、性善説です。もちろん、現実はもっと厳しいこと、平気で嘘をつく人たちがいること、世の中にはありとあらゆる不正が渦巻いていることを知った上で、信頼を基礎に置く、理想主義的な行動指針です。
懐疑原則には、即効性があります。最初から、不正の芽を剪んでしまうのですから。しかも、すべての人に対する公平性を維持することができます。それに対して、信頼原則は、不正を横行させる危険があります。そればかりか、不正が横行していることを知っていてもなお正しく行動する人たちの不満を増大させ、結果として、それらの人たちの信頼さえ、失いかねません。
以上から、信頼原則に従って行動している人たちの信頼に応えるために、懐疑原則をより一般的な行動指針とし、その枠内で適応可能なかぎり、信頼原則を維持するという方針がもっとも妥当であるという、プラグマティックな帰結が導かれることになります。
懐疑原則は、確かに、全般的適用が可能であり、組織の運営にとっては、即効性と一定の有効性をもちます。ただし、新たな信頼を獲得することはできません。信頼原則は、上に見たように、その原則に従って行動している人たちさえ、守ってあげることができないかも知れません。即効性もありません。組織は、不正の横行によって、機能不全に陥ってしまう危険なしとしません。つまり、信頼原則は、それ自身の維持を困難にしかねないという内在的な脆弱性を持っています。
現実に対して盲目な、あるいはそれから目を背けているだけの意気地なしの似非イデアリストである私は、それでもなお、たとえ少数派であろうと、一般原則として信頼原則を選択したい、と常に願っています。