内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

場末の得体のしれないディスカウントショップのオヤジのような教師としての私

2020-11-06 19:14:22 | 講義の余白から

 今日金曜日は、午前十一時から午後三時半までの遠隔授業三連チャンの前に、午前九時から遠隔ワークショップにオブザーバーとして参加したこともあり、かなりハードな一日だった。ワークショップはただ聴いていただけだから、疲れはしなかったけれど、普段なら十一時ギリギリまで授業の準備に充てられるのに、それができなくてちょっと不安をかかえたまま、本日最初の講義である「近代日本の歴史と社会」の授業開始時間を迎えた。
 結果から言うと、全体としてうまくいった。いわゆる一つの結果オーライってやつですね。
 詰めが甘いという自覚が授業に臨む際の緊張感をいつもより高める。こういうときは特に出だしが肝心だ。声にいつも以上に張りをもたせる。それでうまく乗れると、自ずと言葉が出て来るようになる。思考のリズムと声のリズムが一致する。話しているうちに次に言うべきことが自ずと準備されて口に乗る。こうなればしめたものである。話していて即興性が心地よくなる。その心地よさは、遠隔であっても、聴き手に「感染」する。
 しかし、すべてこの調子でいったわけではない。二コマ目の「メディア・リテラシー」では、現在進行中の日本学術会議任命拒否問題の複雑な背景をひとしきり説明し終わったところで、「問題の複雑性がこれでわかったと思う」と言ったとたん、「先生、まさに複雑すぎて、よくわからないということだけがわかりました。もう一回説明してください」と、強烈なカウンターパンチをくらってしまった。そこで、もう一度、それこそ噛んで含めるように、説明し直した。「さっきよりはよほど明瞭になりました。ありがとうございました」と言ってくれたけれど、それはクラスでも指折りの知力のある学生の答えであるから、サイレントマジョリティーは「わっけわかんねえし」というのが実情であったかも知れない。
 今日三つ目の授業である修士の演習では、植物の哲学について今私が考えている最中のことを話した。素材は十分すぎるくらい揃っているのだが、まだ料理し終えていない。しかも、作り慣れた料理ではない。この数ヶ月に集めた「食材」で今まさに創作中の一品なのだ。それを無理やり「味見」させられる学生たちにとっては、ヒドく迷惑な話だ。生煮えだったり、味が薄かったり、しつこかったり、とにかくまだバランスが悪い。盛り付けも試行錯誤中で、見た目もよくない。
 なんとか最後まで辿り着いて、「ごめんネ、こんなまとまらない話で」と謝罪したら、「そんなことありません。大変興味深い話でした」とチャットで返してくれる学生がいたり、良い質問をしてくれた学生がいたりして、救われたのは私の方でありました。
 ところで、植物の哲学が日本研究と何の関係があるのかと不審に思われた方もいらっしゃるかも知れない。ごもっともである。正直言って、カンケイ、ない。が、敢えて開き直ろう。対象としての日本文化ナンチャラではなく、一人の日本人がテツガク的にあれこれ考えている現場のみっともない姿を晒すことがブンカジンルイガク的な日本研究の一対象を提供していることになるのである(― よく言うよ、ホント)。
 それにしても、と思うことがある。日本近代史と現代メディア・リテラシーと植物の哲学を三連チャンで講義するとは、我ながら呆れる。よく言えば、オールラウンダーである(文学史に関しては、古代から現代まで全部教えたという「グランドスラム」を昨年度後期に達成した)。悪く言えば、ありとあらゆるマガイモノを売りつける場末の得体のしれないディスカウントショップのオヤジである。
 自己評価としては、前者二割、後者八割、である。