宮から、方違えの物忌で人目を忍んだ所にいるからと、迎えの車が女の家に来る。宮邸に入ることも決意した後であり、今はもう宮の言うとおりにしようと、車に乗って参上する。
心のどかに御物語、起き臥し聞こえて、つれづれもまぎるれば、参りなまほしきに、御物忌過ぎぬれば、例の所に帰りて、今日はつねよりも名残り恋しう思ひ出でられて、わりなくおぼゆれば、聞こゆ。
つれづれと今日数ふれば年月の昨日ぞものは思はざりける
御覧じて、あはれとおぼしめして、「ここにも」とて、
「思ふことなくて過ぎにし一昨日と昨日と今日になるよしもがな
と思へど、かひなくなん。なほおぼしめし立て」とあれど、いとつつましうて、すがすがしうも思ひ立たぬほどは、ただうちながめてのみ明かしくらす。
宮と二人、寛ぎ、寝ても起きても話していると、つれづれの思いも紛れる。いっそこのまま宮邸にお仕えしたいと思う。ところが、物忌が終われば、宮は邸に、女は自分の家に、別れ別れに帰る。幸福な一日を二人で過ごした後だけに、女は名残惜しく、苦しく思う。文を宮に差し上げる。
歌の冒頭にあるように、女はまたつれづれに戻ってしまっている。「この年月の間、昨日一日だけが物思いのない日でした」という歌を御覧じて、宮も女を愛おしく思われるが、昨日のような日が続くような未来は二人にはありえない。宮にできることは、女に宮邸仕えを促すことだけだ。
しかし、女は決心がつかない。宮邸に入るということは、他の女たちとともに宮に仕えるということだ。宮の愛を独占することはできない。またしても、ただぼんやりと、物思いがちに日々を過ごす。
つれづれは、宮と共にあっても、「まぎれる」だけであって、解消されることはない。むしろ、別れ別れに帰った後は、つれづれがより一層深まってしまう。あるいは、つれづれという存在様態の根源性がさらに露呈されただけとも言える。