内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

瀬戸内寂聴訳で読む『源氏物語』

2019-04-25 19:22:51 | 哲学

 今日の演習で読んだ唐木順三『無常』「宇治十帖」の節には、当然とはいえ、『源氏物語』からの引用が多い。同節の発表を担当した三人の学生たちは準備に悪戦苦闘したようだが、無理もない。それでも、それぞれに真面目にテキストと向き合い、源氏の原文もなんとか訳そうとしていた。その努力は評価に値する。
 しかし、昨日の記事で触れたように、唐木は巻名を示すのみで、出典箇所を一切明記しないから、現代語訳や仏訳を参照しようにも、引用箇所を特定できず、彼らにはまったく歯が立たない箇所も少なくなかった。
 そのことは当然予想できたので、昨晩から今日の午前中にかけて、私の方で、昨日の記事で話題にしたジャパンナレッジと電子書籍を駆使して、すべての引用箇所を特定し、それぞれに仏訳を付したスライドを準備して授業に臨んだ。最初の箇所の担当だった学生がぎりぎりまで準備にかかり、家を出るのが遅くなり遅刻すると他の学生が授業のはじめに知らせてくれたので、その学生を待ちながら、用意したスライドを使って源氏その他の古典からの引用箇所とその仏訳を提示した。
 日本人だって、研究者・大学院生や古典愛好家を除けば、源氏の原文を注釈も現代語訳の助けもなしに読むことは容易ではない。いちいち注釈書を参照せずに現代語で小説作品のように味読できるように、明治以降、大作家たちが現代語訳を残してくれているが、それとてもなかなかすらすらとは読めないところもある。
 小学生の頃、離れの祖父の書架に与謝野晶子訳が並んでいたので、興味本位で覗いてみたが、まるで歯が立たず、すぐに書架に戻したのを覚えている。初めて全巻読破したのは大学受験の準備の一環として新潮古典集成版を読んだときであった。今年に入って、岩波文庫で現在刊行中の新版で読破敢行中であるが、遅々として進まない。
 そこで、というわけでもないが、ふと最近の現代語訳を読んでみる気になった。あれこれ見比べて、瀬戸内寂聴訳を電子書籍版で今さっき購入した。紙の版もほしいが、これはまた日本から送ってもらわなければならないので、後日の楽しみとする。
 今日の演習で原文を読んだ箇所を読んでみた。とても良い訳だと思う。例えば、夕顔の様子を記述した有名な箇所はこうなっている。まず原文、そして瀬戸内訳を引く。

白き袷、薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿いとらうたげにあえかなる心地して、そこととりたててすぐれたることもなけれど、細やかにたをたをとして、ものうち言ひたるけはひあな心苦しと、ただいとらうたく見ゆ。心ばみたる方を少し添へたらばと見たまひながら、なほうちとけて見まほしく思さるれば(日本古典文学全集版)。

女は白い袷の上に、薄紫の着慣れた柔らかな表着を重ねていて、あまり目立たないその姿が、たいそう可愛らしくきゃしゃな感じです。どこと取り立ててすぐれたところもないのですが、身体つきがほっそりとしてたおやかに、何か言う表情など、とてもいじらしくて、ただひたすら可愛らしく感じられます。もう少し心の表情を見せたなら、いっそうよくなるだろうとお思いになりながら、やはりもっと身も心もとけあわせて女と逢いたいとお思いになるのでした。

 この箇所は原文でもさほど難しいところではないが、「心ばみたる方を少し添へたらば」について、玉上琢弥訳は「気どる点を少し加えたら」、全集版訳は「もう少し気どりがあってほしい」、岩波文庫新版では「気取っている方面をもう少し加えているならば(よいのに)」と、みなわりとあっさりしている。
 玉上版の原文の当該箇所の脚注には「心ばみ」について「源氏物語中、これ一例のみ。語義不明」となっているが、実はもう一箇所ある(これもジャパンナレッジのおかげで数秒で特定できた)。それは、「末摘花」の中の「くはや、昨日の返り事。あやしく心ばみ過ぐさるる」という光源氏の言葉の中である。「心ばむ」とは「心遣いをする」「気取る」等の意と説明されることが多い。
 瀬戸内訳は、明らかに岩波古語辞典に依拠している。同辞典の語義には、「気のある風情を示す。心の表情を見せる」とある。この語義が巧みに組み込まれていて、この一節、すらりと読める。最後の一文の「なほうちとけて見まほしく」を「やはりもっと身も心もとけあわせて女と逢いたい」と官能性を織り込んで丁寧に訳しているのも心憎い。
 その他の箇所についても、第三者的な記述文と光源氏の思いの叙述とがなだらかに繋げられており、全体としてとても読みやすくかつ原文に忠実な良訳だと思う。和歌についてはすべて原歌を引いた後で訳を分かち書きで示しているのも親切な配慮だと思う。