内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ローマ帝政期に現れる自己の自己に対する関係の新しい形から私たちは何を学ぶことができるか

2017-07-10 18:13:01 | 哲学

 一昨日から取り上げているフーコーの未公刊講演集『自分自身について本当のことを言うこと』の前半の主題は、古代ギリシャ・ローマ時代の「自己の文化 culture de soi」の分析である。その内容は、この講演の数ヶ月前に行なわれたコレージュ・ド・フランス講義『主体の解釈学』(1981‐1982)とほぼ同じであり、特に目新しい知見が披瀝されているわけではない。
 このことは1980年以降にフーコーがアメリカで行った他の講義や講演についてもおおよそ当てはまることだ。ただ、それらは同じ言説の単なる繰り返しというよりも、専攻も関心も様々に異なる聴衆を前にして、同じテーマについて繰り返し、しかしフランス語以外の言語で話すことそのことがフーコーにとって哲学的実践の形であったと見るべきだろう。
 トロントでのセミナーは、フーコーにとって英語で行う初めてのセミナーで、予め用意した原稿なしに「即興で」英語で話すことにかなり戸惑っている様子が記録から読み取れる。しかも予め特に決められた形式があったわけでもなく、様々な形式の可能性を示唆しながら、積極的に発言してくれるようにと学生たちに繰り返し頼んでいる。
 他方、セミナーでの読解の対象になっているテキストを予め読んできてほしいとも頼んでいる。これは別に特別な要求ではなく、むしろセミナーに参加する側の最低限の義務とも言えるが、それが守られてはいなかったことがセミナー第二回目の冒頭のフーコーの冗談めかした発言からわかる。

Tout le monde a-t-il lu ces textes ? Oui ? Non ? Personne ? Oui, je vais vous punir, c’est sûr ! Je ne vous dirai pas comment... C’est une surprise le dernier jour ! (Op. cit., p. 189)

 このセミナーの議論の出発点になっているテキストはプラトンの『アルキビアデス』である。このテキストが選ばれたのは、その中に「自己への配慮 epimeleia heautou」という言葉が初めて出てくるからである。『アルキビアデス』での「自己への配慮」をまず理解した上で、それとの違いをエピクテートスやセネカのテキストの中に探りながら、自己の文化の最盛期とフーコーが見なすローマ帝政期における「自己への配慮」の特徴が浮き彫りにされていく。これらの読解作業を通じて、フーコーは、ローマ帝政期に形成される自己の自己に対する関係の新しい形を示していく。
 明日の記事では、単に歴史的な関心からではなく、自己の自己に対する関係が自分たちの生きる社会の中でどのように形成されるのかを私たち自身がよりよく知るための鏡として、その形をもう少し詳しく見てみよう。