内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

偉大なる師たちについての弟子たちよる追想 ― 夏目漱石と西田幾多郎(二)

2017-07-02 08:26:39 | 読游摘録

 西田幾多郎に私淑した弟子たちも数多く、彼らもその偉大なる師について少なからぬ随筆を書き残している。西田没後の追想も多数あるが、愛弟子の一人三木清は、西田の存命中に西田の人となりについていくつかのエッセイを発表している。
 その中でも一番長く、師への深い敬愛が溢れ出ている名文章が「西田先生のことども」である。様々な西田論に引用されてもいる。私自身、高校生の時に新潮文庫版『読書と人生』を買って以来、かつては繰り返し読み、読む度に、その文章全体を荷電している哲学への情熱に触れ、心動かされてきた。初出は昭和十六年(1941)年八月『婦人公論』。翌年六月、『讀書と人生』(小山書店刊)に収録。『三木清全集』(岩波書店、1985年)では第十七巻に収録されている。この文章もネット上の「青空文庫」で読むことができる。
 今さっき久しぶりに、昨夏全巻購入した『全集』版で読み直し、感動を新たにした。二箇所、どちらもちょっと長いが、引用する。

 弟子たちの研究に對しては、先生はめいめいの自由に任されて、干渉されることがない。その點、無頓著に見えるほど寛大で、一つの型にはめようとするが如きことはせられなかつた。先生は各人が自分の個性を伸ばしてゆくことを望まれて、徒らに先生の眞似をするが如きことは却つて苦々しく感じられたであらう。こんなことをやつてみたいと先生に話すと、先生はいつでも「それは面白かろう」といつて、それに關聯していろいろ先生の考へを述べて下さる。そんな場合、私は先生に対して善いお父さんといつた親しみを覺える。先生にはつねに理解がある。誰でも先生の威嚴を感じはするが、それは決して窮屈といふものではない。先生を訪問して、殆ど何も話すことができないで歸つてくる學生にしても、決して窮屈を感じたのではない。そんなところに先生の豪さがあると思ふ。先生は自分の考えを弟子たちに押し附けようとはせられない。自分から進んで求めるといふことがなく、しかし来る者を拒むということがない。直接先生から教を受けた者はもちろん、さうでない人々にも先生を師と仰ぐ者が多いのは、先生の哲学の偉大さに依ることは云ふまでもないが、かうした先生の人柄にも依ることであらう。

 書物に對すると同様、先生の人物評もなかなか鋭い。それも一言でずばりとその本質を云ひ當てる確かさは、恐ろしいほどである。他の人など、まるで問題でないといつた風である。そのやうな不敵なところ、烈しいところがある。一面、先生にはまた實にやさしいところ、涙もろいところがある。或る日、演習の時間に一人の學生が自分の當る番であるのに豫習をしてきてゐなかつた。先生は怒つて「お前のやうな者は學校をやめてしまへ」と突然大きな聲で云はれた。ところが先生の眼を見ると、心なしか潤んでゐた。私は先生の烈しい魂に接すると共に、先生の心の温かさを知つて、目頭が熱くなるのを覺えた。先生はその不敵さ、その烈しさを内面に集中することに努められてゐる。そして世間に對しては萬事控へ目で、愼しみ深く、時にはあまりに控え目に過ぎると思はれることさへある。久し振りでお目にかかると「何某はどうしてゐるか」、「何某はどうしてゐるか」と、弟子たちのことを忘れないで尋ねられる。先生は實に弟子思ひである。またお訪ねすると、時にはいきなり「どうだ、勉強してゐるか」と問われることがある。そんな時、自分が怠けてでもゐると、先生のこの一問は實に痛い。しかし先生が私どものことを心配してゐて下さる心の温かさがわかつてゐるので「これは勉強しなければならん」と考へて、私は先生のところから出てくるのである。

 この文章が発表された年の五年前の昭和十一年(1936)二月二十二日の三木の日記にはこうある。これも様々な西田論あるいは三木論によく引用されている箇所である。

 午後鎌倉に西田先生を訪ねる。今日は身體の問題についてなかなか面白い話があつた。先生と話してゐると勉強がしたくなる。自分も哲學者として大きな仕事をしなければならぬ。自分の使命と力とを決して輕くみてはならない。私には出来るのだ。他を羨むことも恐れることもない。私の現在の境遇が何だ! 仕事だ! 仕事だ! さう考へると私は幸福になる。私には力がある。(『全集』第十九巻、153頁)

 師の逝去から三ヶ月余り後の敗戦直後九月二十六日の三木清の獄死は悲劇的であった。志半ばで倒れた哲学者の死を悼む声は多かった。しかし、このように偉大でありかつ弟子たちへの慈愛に溢れる師をもつことができ、未完とはいえ、後進が引き継ぐべき大きな仕事を残した三木の人生は、必ずしも不幸であったとばかりは言えないだろう、と私は思う。