内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

Si vis amari, ama ― 愛されたいなら、愛しなさい

2014-10-06 07:49:33 | 随想

 昨日日曜日は、今月末の国際シンポジウムでの研究発表原稿作製のためにあれこれの参考文献を読み散らしてはメモを取るという作業を日がな一日続け、とうとう一歩も外出しなかった。曇りがちの空を書斎の窓越しに樹々に覆われた視界の向こう側にときどき眺めながら、部屋の中では、書物の森の中を歩いては立ち止まり、考えてはまた歩き出すということを繰り返しているうちに、日が傾き始めた。
 自律的個体の形成、創造的契機としての偶発性、過程としての自由、社会内対立的要素の技術的統合化などの問題群を、ベルクソン、ホワイトヘッド、シモンドン、ジンメルなどを読みながら、それぞれについて鍵概念の周りに議論の骨子を素描していった。
 ジンメルの『社会学 社会化の諸形式についての研究』の中の « Der Streit »(対立・争議・紛争)と題された章は、〈対立〉を一つの社会化の契機として社会形成過程の中に積極的に位置づける、きわめて挑発的かつ鋭利な論考で、今日の国際社会の諸問題を考える上でも最重要な論点の一つを具体例とともに提示している。その章のはじめのほうに、ラテン語の警句 « Si vis pacem para bellum » が引かれている。その文脈では、ジンメルの議論をこの格言に表現されているような立場から区別するために、むしろ否定的に使われているのだが、この格言そのものは、今日の日本の国際社会の中での立場を考える上でも、一つの議論の出発点を与えてくれるだろう。
 この格言は「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」と訳せるが、引用される文脈によってさまざまに解釈されうるし、この格言を念頭においた上でのヴァリエーションもいくつかある。ナポレオン・ボナパルトなどは、この格言を念頭に置きつつ、それをあえて逆転させ、 « Si vis bellum para pacem » と言っている。「戦争したければ、平和の備えをせよ」、つまり、そうやって敵を油断させよ、というわけである。さすが天才は違うものである。それはともかく、現在の日本の総理大臣がこの格言を知ったらさぞ喜ばれることであろう。
 しかし、今日はこのようなきな臭い話がしたかったわけではないので、上記の格言が思い出させてくれた、同じく « Si vis » で始まる別の格言を引いて、今日の記事を締めくくりたい。
 « Si vis amari, ama » (もしあなたが愛されることを望むなら、あなたが愛しなさい)。この格言は、セネカの『倫理書簡集』(若き友人ルキリウス宛の書簡集)の第九書簡第六節に出てくる(この格言についてのさらに詳しい説明はこちらを参照されたし)。セネカの言葉として紹介されることが多いが、当該書簡の中ではストア派の別の哲学者ヘカトンの言葉として引かれている。その引用部分を全部訳すと以下のようになる。

私は君に愛の秘薬を、麻薬や薬草や何らの呪文もなしに、示そう。「愛されたいなら、愛しなさい」