内的自己対話-川の畔のささめごと

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世間之愚人 ― 浦島伝説より

2014-01-10 00:51:54 | 読游摘録

 佐竹昭広の『萬葉集再読』(平凡社、2003年)に、「「無常」について」と題された論文があり、そのはじめの方に、萬葉集巻九・一七四〇、「浦島』伝説を回顧した高橋虫麻呂の長歌が引かれている。その長歌の中に「世間之愚人」という表現が出てくる。「ヨノナカノオロカビト」と訓む。この歌の作者である虫麻呂が浦の島子(ウラノシマコ)を批判してこう呼んでいて、「この世の中で最も愚かな者」を意味する。この歌の表現や表記は漢籍の素養を反映しているとする先行研究に言及した上で、佐竹昭広は、この「世間之愚人」は、漢籍というより、漢訳仏典に負っている可能性が少なくないと言う。そして、この表現を仏教語として把握する観点から、この歌を神仙思想のコンテクストの上に、仏教思想のコンテクストを重ね合わせて読み直そうとする。

「不老不死」「常世」の国には時間というものが無い。「有為」の世界とは反対に、そこは永遠に「常住」。「常住」は「無常」の反対語。「有為無常」と言い、「世間無常」と言う。「世間愚人」の世界は呵責なき「無常」の世界であった。浦島子は、その意味で「世間愚人」であった。あくまで「俗愚の人」に過ぎなかった(69頁)

 漢語「無常」を和語に読み直せば「常無し」となる。形容詞「はかなし」は萬葉集に用例皆無、次の時代まで待たねばならないのに対して、この「常無し」は用例多数。例えば、大伴家持の「世間無常を悲しぶる歌」との題詞を持った歌(巻十九・四一六〇)は、「天地の 遠き初めよ 世間は 常無きものと 語り継ぎ」と始まる。
 世の中の常無きことは、萬葉以後無数の歌に詠まれる。歌に訓むことで世間無常をそれとして観じ、世間の俗愚を離れることもできようか。しかし、歌も詠まず、仏道にも入らぬこの我は、ただただ「俗愚の人」として世間に留まる。