内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

再び世界は、私に向かって開かれた ― 井筒俊彦から川上弘美へ

2013-12-12 07:36:00 | 講義の余白から

 今日(11日水曜日)、朝は昨日と同じプールへ。昨日より空いていて快適に泳げたが、残念ながら30分ほどで上がる。午前中に、本務校で、来年度日本留学希望者のためのガイダンスと来夏の日本語研修希望者のための説明会があり、この二つのプログラムの責任者なので遅刻するわけにはいかないからである。ガイダンスには三十名近い出席者。定員枠は十四名なので選考は厳しくならざるを得ない。語学研修の方はほどほどの希望者で安堵する。受け入れ大学の方でホスト・ファミリー探しに毎年苦労されているので、参加者はあまり多くない方がいい。
 この二つの会議の後は、修士の演習。今日はテキストとして選んだ三浦展『下流社会 新たな階層集団の出現』からの抜粋を読み終えた後、面白い議論になった。フランス社会において、なぜ自分たち学生が就活においてモチベーションを維持するのが難しいか、自分の実際の経験を基に話してくれた女子学生がいて、そこから大学教育と社会とのあり方に話が発展した。ところどころ日本語を交えながら、主にフランス語で議論することになったが、発言はしなかった学生も非常に注意深く耳を傾けていた。とにかく大人しい「お嬢さんたち」が多い(出席十五名のうち男子学生一名)ので、教室での議論はいつも一部の学生たちがリードすることになりがちだが、毎回授業の後にメールで送ることを義務づけている「授業のまとめ」を読むと、皆さんそれぞれに考えているのである。こういうことをさせる授業は他にないから、自分の意見を述べることができるいい機会と捉えてくれているようで、それはこちらの望むところでもある(これを日本語でできれば言うことないのですがね)。
 さて、イナルコの講義「同時代思想」である。私自身としては話しやすいテーマであったので、かなり調子よく二時間話せたのであるが、学生たちの反応は見事に二つに分かれた。それが面白いほどであった。もうまったく何が問題なのかさえわからないという途方に暮れた様子をあからさまに示す学生たちと、非常に強い関心をもって耳を傾け、しかも実に的確な質問をしてくれて、勘所をちゃんと抑えてくれた学生たちとに綺麗に分かれたのである。
 冒頭では、井筒の天才的語学力にまつわるいくつかのエピソードを話し、そこまでは皆面白がって聴いていたが、一昨日このブログでも話題にした、井筒が少年期に父親から教わった内観法について、それを語っている『神秘哲学』序文の原文を読みながら説明するところから、反応が分かれ始めた。意識の多層性、文字表記とその背後にある心の動き、語りえぬものの経験などの問題に何らかの仕方で自分自身考えるところがある学生たちは、そこから俄然集中力が増したようである。だから、いよいよ『意識と本質』の本文を読む段階になっても集中力が落ちなかった。他方のグループは、自分たちにはまったく理解不能な何か異語のようなものを私が話しているかのような印象を持ったようである(そう顔に書いてありました)。しかし、どちらかといえば、後者の方が少なかったので、そっちは放っておいて、勢いに任せて話を続けた。実際に読めたのは、『意識と本質』最初の十頁ほどに過ぎなかったのであるが、それだけでも十分なインパクトがあったようである。
 講義の残り時間が五分になったところで、テキスト読解を中断し、井筒が言うところの言語的分節化によって与えられる世界が失われるとき、どのような事態が発生するかということの例証として、井筒自身が挙げているサルトルの『嘔吐』とはまったく別のテキストを学生たちに与えた。それが、川上弘美の「Monkey」と題された、わずか四頁ほどのエッセイである(『あるようなないような』 中公文庫、二〇〇二年、152-156頁)。このエッセイの中で、川上弘美は、幼少期にアメリカで経験した言語不通状態、その結果として彼女の身に起こった生理的反応、教室から眺める風景の立ち現われ方、そして、彼女が発した最初の英語の一文がそれまでの世界を一変させたこと、それらをとても印象深く、かつさりげない筆致で語っている。
 まだ英語が一切わからず、ただ頭上を英語が自分には無関係な音の連なりとして飛び交っている間は、「風景に意味はいっさいなかった。どの風景も、あわあわと過ぎてゆくばかりだった」のである。ところが、ある日、彼女は、教室に昼食としてバナナを持ってくる。そうすると、当時の教室では、そのようにバナナを持ってきた生徒は、必ず「〇〇は猿だ」と囃し立てられるのがお決まりだったから、案の定、彼女も同様に、「Hiromi is a Monkey」と囃し立てられる。ところが、その時、ふと、彼女は、その表現「Hiromi is a Monkey」をそのまま自ら高らかに唱えるのである、彼女を囃し立てるクラスの連中の只中で。「まさにその瞬間から、わたしの英語習得は始まり、世界は艶と色を取り戻した。」それは彼女が世界を取り戻した瞬間、「ふたたび世界は、わたしに向かって開かれた」瞬間である。世界とそこにおける自分が新たな仕方で分節化された姿で立ち現れた瞬間である。