内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

多様なる断章的思考 ― パスカル・ニーチェ・ヴィトゲンシュタイン・ノヴァーリス

2013-12-18 03:53:00 | 哲学

 断章形式の文章と言っても、様々なタイプがある。そのタイプの違いは、思考のスタイルの違い、志向されている価値の違いでもある。
 パスカルの『パンセ』は、断章として書かれることが最終的な目的とされていたわけではない。それはキリスト教弁神論という一著作として纏められることがパスカル自身によって目指されながら、その早逝のゆえ、草稿がいくつかの束として遺された結果、それがパスカル没後、様々な編集過程を経ることになり、今日でも、それぞれ非常に異なった編集方針のもとに構成された『パンセ』がいくつか流通している。最初に広く普及したのがブランシュヴィック版だったので、便宜上この版の断章番号で引用されることがいまだに多いが、この版の編集方針はパスカルの意図から大きく離れている。だからパスカルの専門家たちにとっては、草稿全体をいかにパスカルの意図に従って読み直すかということが最大の問題になるわけである。しかし、それはそれとして、専門家でない読者としては、そのような学問的問題意識から離れて、個々の断章を自由に読むことで思考が触発されるということもあっていいだろう。
 ニーチェの場合は、断章そのものが思想表現のスタイルとなっている典型的な例だろう。ある一定の秩序・体系の中に収まってしまうことを拒否し、論証という手続きを経ることなしに、端的に問題の核心に切り込んでいくことをこのスタイルは可能にする。ニーチェの思考は、断章という形式の中で散乱していたわけではなく、むしろその全体は鋭敏な直観に貫かれていたと言うことができるだろう。
 ヴィトゲンシュタインの場合、『論理哲学論考』と『哲学探究』とでは、見かけ上はいずれも短い文章の連鎖からなっているという共通点を除けば、まったく違った意図によって断章形式が採用されている。前者は、その数段の階層性を持った番号付けが示しているように、入念な配慮のもとに順序と構成が考えられた一つの全体をなしている。後者は、あるところまではヴィトゲンシュタイン自身によって断章の配列が熟慮されているが、しかしそれは最終的に一つの完成した全体を目指しているのではなく、おそらくヴィトゲンシュタインの哲学的探究が続くかぎり閉じることのない、開放的な思考の連鎖を示している。
 ノヴァーリスの場合、知友をして「三倍の内容を三倍の速度で話す」と言わしめた超高速回転頭脳と健康に恵まれなかった身体的条件とが必然的に選ばせた思考の表現スタイルがその断章形式であったと言えるように思う。有限な人間存在には到達不可能な絶対性を明示的あるいは暗示的な仕方で志向するそれぞれの断章間の「生の飛躍」をどう埋めるかによって全体像は多様な仕方で結ばれ得るのであり、そしてそれは可変的であること止めることはない。この全一なるものを渇仰する永遠の可変性・変幻性がノヴァーリスの断章形式においは思考の積極的価値として息づいていると言えるだろう。それが現代においてノヴァーリスを読む者の裡にも、その心の奥深くに眠っていたロマン性 ― ある時代と文化に限定された思想運動としてのロマン主義ではなく ― を目覚めさせ、無限な多様性を超え包むものへと向かう思考を刺激してやまない。