内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

黄昏時の光の戯れの中、セーヌに浮かぶプールで泳ぐ

2013-12-06 05:47:00 | 雑感

 今日(5日木曜日)、二年生の「日本近代史」、これが今年最後の学部の講義。丸山眞男の「明治国家の思想」という、1946年10月に歴史学研究会主催講習会「日本社会の史的究明」の一講として発表され、のち『日本社会の史的究明』という1949年に岩波書店から出版された共著に収録され、さらに『戦中と戦後の間』(1976年)にも再録された講義録を基にして、「明治時代の全体を貫く国家思想の性格」について話した。丸山自身、これは「非常にむずかしい問題」だと冒頭で述べており、時間も限られているから、「話がドグマチックになるのではないか」という懸念を表明しているが、それだけに話が非常に明快な図式性をもっていて、学生たちに明治時代を通観するための手掛かりとして役に立つであろうと、このテキストを選んだ。もちろん仏訳があるということも、もう一つの大きな選択理由である。丸山はまず、「明治維新の精神的な立地点」として二点挙げる。尊皇攘夷論と公議輿論思潮である。この二つの関係および絡み合いの中に、明治の精神のその後の発展が見られる。尊王論は、明治維新における政治的集中の表現、公議輿論思潮は、政治的拡大の原理として登場した。尊王論が政治的頂点への集中であるのに対して、公議輿論は政治的底辺への拡大であるとして捉えることができる。明治国家は、この二つの要素の対立の統一である。以上が丸山の描く明治国家の思想の基本構造である。非常にわかりやすい話だが、学生たちがどこまで理解してくれたかは、試験の結果を見てみないとわからない。
 この講義の後は、二つの演習の学期末試験。この試験監督というのがなんともつらい。ただ座って答案を書いている学生たちを見ていればいいわけだが、だからこそ、他に何もするわけにはいかず、ほとんど毎回睡魔との戦いである。今日も何度となく瞼が閉じそうになるのを堪え、立ち上がって学生たちの席の間を巡回したりしたが、それぞれたった一時間なのに、なんとそれが長く感じられたことか。この「苦役」(答案に真剣に取り組んでいる学生たちに失礼ですね)から解放されるやいなや、パリに戻る電車に飛び乗り、やれやれこれで今年も後は講義・演習としては来週と再来週の本務校の修士一コマとイナルコの講義一コマを残すのみだと解放感に浸り、堪えていた睡魔の再来に体もなくやられ、車中船を漕ぎ続ける。
 だが、そのまま帰宅したのではない。セーヌ川に浮かぶプール Joséphine Baker に直行したのである。プールに着いたのがちょうど午後5時。まあまあ空いている。解放感も手伝ってか、最初から飛ばし気味、体も軽く感じる。水に乗れている感じ。こういうときはまるで水上を滑るような、あるいは水中をすり抜けるような感覚で泳げる。同じコースの人たちも比較的よく泳げる人たちばかりだったし、みんな他の泳者の速度に気を使い、自分より速いと見るとすぐに譲る(いつもこうだと本当に快適なんだけどなあ)。黄昏時でガラス張りの向こうの空が薔薇色に染まり、セーヌの対岸の自動車専用道路の車のヘッドライトが川の流れのようにセーヌにそって動き、セーヌを渡る高架を通過するメトロ6番線の光がそれに交差する。プール内は天上の照明と水中の照明で、プール水面上の空間も含めて、施設内全体が黄昏時の柔らかな光の戯れに包まれ、その中を泳いでいると、その空間の中に溶けこむような不思議な感覚。一時間余り泳いで、程よい疲れを感じ出したところで上がる。
 今、夕食を終え、ワインを飲みながら、この記事を書いている。さあ、明日から、また気分も新たに研究を続けよう。