城郭探訪

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観音寺城 1 近江国(安土)   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年09月16日 | 山城

観音寺城

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観音寺城
滋賀県
食い違い虎口跡
食い違い虎口跡
別名 佐々木城
城郭構造 山城
天守構造 なし(屋形二階)
築城主 六角氏頼
築城年 応仁文明年間(1467年 - 1487年
主な改修者 佐々木六角氏
主な城主 佐々木六角氏
廃城年 永禄11年(1568年
遺構 本丸、二の丸、曲輪、土塁、石垣、堀、門跡等多数
指定文化財 国の史跡
再建造物 なし
位置 北緯35度8分43.6秒
東経136度9分46.55秒

観音寺城は、近江八幡市安土町にあった山城支城和田山城佐生城箕作城長光寺城などがある。

概要

佐々木氏の家紋(目結紋「平四つ目」)

近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる。

標高432.9m、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。

歴史・沿革

正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。

観応の擾乱の最中の観応2年(1352年)9月には近江国にて足利直義の兵が南朝と連合して、足利尊氏方にあった佐々木道誉(京極高氏)や六角氏頼・直綱兄弟らを打ち破り、敗れた道誉らが当時「佐々木城」と呼ばれた観音寺城に逃げ込んで籠城している[1]

応仁の乱

室町時代応仁の乱では、六角高頼が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたのである。応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開される。

第一次観音寺城の戦い

第一次観音寺城の戦い
戦争攻城戦
年月日応仁2年(1468年)4月1日
場所:観音寺城一帯
結果:京極持清・京極勝秀連合軍の勝利
交戦勢力
京極持清軍
京極勝秀軍
六角高頼
指導者・指揮官
京極勝秀 伊庭行隆
 
   
 
  観音寺城は開城

細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。

数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡した。

観音寺城の模型 / 滋賀県立安土城考古博物館所蔵

第二次観音寺城の戦い

第二次観音寺城の戦い
戦争攻城戦
年月日:応仁2年(1468年)11月8日
場所:観音寺城一帯
結果六角政堯・京極持清連合軍の勝利
交戦勢力
六角政堯軍
京極持清軍
六角高頼軍
指導者・指揮官
六角政堯
京極持清
山内政綱
 
   
 
  観音寺城は開城

応仁2年11月初め、陣代山内政綱がようやく京都より帰国し観音寺城の防備を固めた。弓削の戦いで六角高頼に敗れた六角政堯と京極持清の連合軍は雪辱を果たすべく、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。

同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城を攻め落とすべく攻撃を開始。山内政綱は防戦したが守り切ることができず、火を放ち敗走し、高頼方の武将23人が六角・京極連合軍に寝返ったと『碧山目録』に記載されている。

繖山

第三次観音寺城の戦い

第三次観音寺城の戦い
戦争攻城戦
年月日文明元年(1469年)5月
場所:観音寺城一帯
結果:六角高頼軍の勝利
交戦勢力
六角高頼軍 六角政堯軍
京極持清軍
指導者・指揮官
六角高頼、山内政綱
伊庭貞隆、伊庭行隆
多賀高忠
六角政堯
 
   
 
   

東軍の細川勝元は8代将軍足利義政を擁して官軍となった。この権威を利用して文明元年(1469年)5月、六角高頼の近江守護職を解任、代わりに京極持清を守護に任命した。守護に任命しただけではなく、持清に従わない者は知行地を没収する特権も持った。

これに激怒した高頼とその被官は焼失した観音寺城を修築、3度立てこもることになる。これに対して京極軍は多賀高忠や六角政堯を派兵、鎮圧に向かわせた。高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になった。攻囲軍は猛攻であったが高頼軍も防備し、三度目の正直、ついに京極軍を撃退することに成功する。

その後、高頼が幕府御料地を侵略した際には延徳元年(1489年)9月に9代将軍足利義尚親征を、延徳3年(1491年)8月には従弟の10代将軍足利義稙の親征を受けたが、高頼は2度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回している(長享・延徳の乱)。

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