城郭探訪

yamaziro

鎌掛城 近江国(日野)

2013年08月02日 | 平城

鎌掛城に探訪に出かけた!位置はしっかり確認済。

西側の屛風岩への山道を、どんどん登ったが灌漑用ダム湖に!

ダム湖の土塁を東に、山頂目掛けて攻め込むが17:30。

一人での城攻め・夕刻・・・惨敗、再度アタックしようと下山!

 

帰り道、日野町庁舎が・・・早速教育委員会へ入城口を聞いた。

・・・シャクナゲ渓谷側の林道から、縄張り図で説明を受けた。

縄張り図は、日野町教育委員会で入手。

城域 :150~200m×30m

所在地:蒲生郡日野町鎌掛 map:http://yahoo.jp/YXnTf8

遺  構:土塁・堀切・井戸・堅堀

区 分:山城

標 高:372m  比高差:100m

築城期 :大永3年(1523)  

築城者:蒲生秀紀 

初城主:蒲生秀紀 

目 標:県道182号しょくなげ渓谷と屛風岩の中間【石楠花ウディハウス】横空地に駐車

訪城日:2013.8.2  

蒲生氏の紋対い鶴

歴史

 永正10年(1513)蒲生貞秀の死後、蒲生家は家督争いから内訌に発展し、大永2年(1522)蒲生高郷は観音寺城の城主・六角定頼の援けを得て、甥の秀紀の居城・音羽城を攻めた。

 秀紀は8ヶ月におよぶ籠城の後に降伏し、定頼の調停で両家分立とした。

その後、秀紀は音羽城を破却して鎌掛城を築き、高郷は中野城を居城とし、蒲生氏は二家に別れることとなった

 大永5年(1525)秀紀の叔父高郷と、その子定秀は、鎌掛城の秀紀を毒殺することを企てた

 禅憎祥善に毒を飲まされた秀紀は、自ら腹を切り池に落ちて死んだといわれている。 鎌掛城は築城後わずか3年たらずで廃城となった。

鎌掛山城の遠望県道182号しょくなげ渓谷と屛風岩の中間【石楠花ウディハウス】横空地に駐車

一つのルートが北東側の林道側から入る方法で、県道をそのまま東へ走っていくと南に橋が架かっている。朝は入口がチェーンでロックされていたのだが、帰路は開いていた。ここから少し入ると直ぐに川を渡る橋がある。そこの橋の付け根から山に入って行く道があり、西側の尾根上を目指せば、東側尾根の先端の曲輪に達する。


  入城口の目印に!右手へここから、攻め込みました!2m程

                                           ゴルフ場のクラブハウス                

 鎌掛城は音羽城の南西約2km、鎌掛地区の通称"城山"の山頂に位置している。

比較的知名度の高い城にも係わらず、地元の人に聞いても知る人がいない。

 山頂から南北に延びる尾根の緩斜面は長さ150~200m、最も幅の広い部分で30mほどであろうか。狭い尾根をこれ以上有効に使いようがないと思えるほど地形を巧みに利用して築城されている。四方はすべて急峻な崖状地形である。

 主曲輪(25m×30m)は南端に位置し、傾斜地を平坦にするため3~4m掘り下げて、土塁と土壁で東~南~西を囲み、曲輪が続く北側だけが開口された格好だ。

 階段状の曲輪が4段ほど続き、北端の曲輪(25m×20m)に至る。ここも主曲輪と同様三方を土塁と切り出した切岸に囲まれ、甲賀地方でよく見る土塁に囲まれた方形城郭のミニチュア版といったところ。

 四方が急峻な崖だけにここまでするかという違和感さえ感じる。とりあえず言葉で表すとすれば「凄い城」である。なにが凄いかはなかなか言い尽くせない、難攻不落の城であるというのが最も適切だろう。

  主郭の虎口(東端の頂上部)

鎌掛城は北砂川の南岸に聳える標高372mの城山山頂に築かれている。整備された登山道はなさそうだが、遺構は良く残っており内折れ土塁のある虎口や石組み井戸など見応えのある城である。

鎌掛城は山頂にある主郭から北東方向に伸びた東西両尾根に曲輪が配されている。西北西に伸びる尾根の麓には山屋敷と呼ばれる土塁や堀の残る居館跡が残り、こちらが大手のような感じもするのだが、この尾根には数条の浅い堀切程度しか防御施設がなく、城は明らかに北東方向からの攻撃に備える縄張りとなっている。

主郭は西隅が櫓台状に一段小高くここに三角点がある。東に向かって平段があり、その先は通路が東へ連なり東端の二郭に達する。主郭と二郭の間の通路は堀底道であるが、主郭側は複雑な地形になっている。

山頂の東端にあるのが二郭で、ここは岩盤を削った土塁が西を除く三方に巡らされており、北西隅に虎口がある。虎口に対して土塁は城内側に折れており、外側の通路は屈折して降りている。内側に曲がった土塁はこの通路を上ってくる敵を正面から迎え撃つようになる。

二郭からの通路を降りた所には周囲に石積が施された井戸がきれいに残っている。ここがちょうど、東西両尾根の間にある谷の付け根にあたる。

西側の尾根は主郭から北北東へ伸びた尾根で、馬蹄形の小段、やや南北に長い曲輪、東西に長い曲輪、広く北側に土塁が付き、東側は大土塁のようにも見える土盛りを残した広い曲輪、そして南北に長い一番下の曲輪と続いている。

東側の尾根は主郭から北東へ伸びた尾根で、二郭下の井戸から谷沿いに降り、そこから通路が続いて尾根に至る。ここには池なのか湧き水なのか、現在でも水たまりがあり、周囲は土塁状になっている。ここから尾根先に向かって広い曲輪が続いている。

              南側の下は(灌漑湖は綺麗) 東側の尾根土塁  主郭での【石積】

                                        この井戸には、吃驚です!5m位の深さ、囲いも無く、落ちれば上がれません?

           土塁に囲まれたヌタ場になっている曲輪

西尾根の曲輪を歩き続けると、やや四角い形状の土塁に囲まれた、ヌタ場になっている曲輪。後ろは高い切岸になり、水抜き用の穴が塞がれ、水がたまっているのではとの事、普段から水が溜まる事で猪の害虫駆除場。左手には土塁の欠落も見受けられ虎口であった可能性も考えらる。    

        

本日の歩数5.566歩 歩行距離4.1km 歩行時間1時間13分

消費カロリー8.2cal 脂肪燃焼8.2g

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、縄張り図(日野町教育委員会)、パンプレット、ウィキペディ他

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!

 


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