城郭探訪

yamaziro

・沖島 城跡

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

沖島坊谷城

CIMG0091.JPG城跡の石垣!。(近世前は畑を作っていた、郭跡で)

水泳場から、湖岸を

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CIMG0151.JPG弁天神社(近年、道を整備して歩いてお参り行けるようにしたそうです)まで。

 本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
 琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にあり、この事は数々の歴史書に見受けられます。
 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。
 また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じた。

 

今参り局

 室町幕府8代将軍:足利義政の側室が「今参りの局」である。正室である日野富子は男児を出産しましたがわずか20日足らずで死亡したため、今参りの局一族が祈り殺したとの罪で、沖島へ流罪とし、数日後に京からの使者により惨殺させました。その時に助けられたとされるのが彼女の子「櫻子」である。小説「櫻子」は昭和34年に大仏次郎によって執筆され新聞連載されました。


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