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城郭探訪

yamaziro

岩神館(いわがみやかた) 近江国(朽木)

2013年08月09日 | 館跡

足利将軍逃亡の地


お城のデータ

所在地::高島市朽木岩瀬  (旧:高島郡朽木村岩瀬) map:http://yahoo.jp/RNOOAD

別 名:秀隣寺庭園

現 状:寺院

遺 構:土塁・堀・庭園・説明板

区 分:丘城

築城期:室町期

築城者:朽木氏

城 主:

標 高:215m   比高差:10m 

目標地:興聖寺

駐車場:興聖寺参拝者駐車場

訪城日:2013.8.24

お城の概要

 岩神館遺跡は、現在の興聖寺境内一帯に位置し、境内の中には名勝旧秀隣寺庭園があります。現存する遺構としては庭園の他に、境内南西部に位置する墓地の西側に土塁と空堀があるほか、土塁や虎口の痕跡が境内の北側に見られます。

岩神館(いわがみやかた)(滋賀県高島市朽木岩瀬)

 朽木は近江の西部に位置し、福井県・京都府に接する山深い集落です。集落内を京都から若狭へと抜ける若狭街道(朽木街道・鯖街道)が通ります。鎌倉時代以降、明治維新にいたるまでこの地を支配したのは、近江源氏佐々木氏の一族である朽木氏です。朽木氏は、近江守護六角氏や江北の実力者浅井氏とは一定度の距離を保って自立した存在でした。それは山間の地という朽木の地理的特性とともに、朽木氏が幕府との間に直接的な関係を取り結んでいたことによります。

 

歴 史

 室町幕府第12代将軍足利義晴は享禄元年(1528)、対立する足利義維・細川晴元に逐われ、近江坂本から朽木へと逃れてきました。この時、義晴が滞在したのがここ岩神館です。義晴は享禄4年(1531)までの2年半を朽木で過ごすことになりますが、その際、公家衆や側近を多く伴っており、その様子は朽木幕府といっても過言ではありません。
 足利義晴につづいて13代将軍義輝もまた朽木にやってきます。天文20年(1551)、三好長慶との不和により近江に逃れてきたのです。その後義輝は上洛を果たしますが、天文22年(1553)8月、霊山城での三好長慶との戦いに敗れ、ふたたび朽木に落ちのびます。この時は永禄元年(1558)3月まで朽木に滞在しました。

 名勝旧秀隣寺庭園は、岩神館とともに、将軍を迎える施設としてつくられたとされています。庭園は館の東側、安曇川の河岸段丘に位置し、眼下に流れる安曇川と対岸の集落を見下ろすことができます。池と大小の石が組み合わされ、複雑な汀線を持つ池泉観賞式庭園で、作庭者は将軍義晴とともに朽木にやってきた細川高国ではないかといわれています。秀隣寺は豊臣秀吉の側室松の丸殿の妹で、朽木宣綱の妻(洗礼名マグダレナ)の菩提寺として慶長11年(1606)に建てられましたが、江戸期に火災にあって建物は全焼し、現在は朽木野尻に再建されています。

朽木は湖西の山深い集落ですが、京都と若狭湾を結ぶ若狭街道が通る交通の要衝です。

領主朽木氏は近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉時代から明治維新まで朽木を支配し続けました。信長以外にも室町幕府第12代将軍足利義晴や13代将軍足利義輝が朽木氏を頼り、朽木を訪れています。

朽木氏は鎌倉時代から江戸時代に掛けて朽木庄を支配していて、室町幕府の奉公衆でもあった縁で天文22年(1553年)に朽木元綱は13代将軍足利義輝・細川晴元らを朽木村に匿っている。

 マグダレナ墓(興聖寺)朽木宣綱の妻は京極高吉の娘のマグダレナ(洗礼名)。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭、

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