城郭探訪

yamaziro

苗鹿(のうか)館 近江国(大津)

2017年11月17日 | 館跡

写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地 :大津市苗鹿2丁目/苗鹿町  map:https://yahoo.jp/xomd1u

区 分:居館

現 状:宅地

築城期:室町期?

築城者:苗鹿氏

遺 構: 宅地開発で消滅

標 高:130m  比高差35m(旧西近江街道より) 

目標地:雄琴温泉/湯元館 荘園団地自治会館

駐車場:団地内路上駐車

訪城日:2017.4.20

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城の概要

西近江街道の雄琴城と小塚山城の中間位置し、荘園団地が開発されて遺構は喪失してしまった。

2丁目の荘園自治会館付近とされ、西近江路を見下ろせる高台に位置する。

志賀の陣で、浅井・朝倉軍の陣になったか?

お城の歴史

  • 『江州佐々木南北諸氏帳』には、「志賀郡 苗鹿 住 佐々木随兵泉州今木 苗鹿五兵衛」の名を記す。
  • 法光寺の歴史によると

 中世には法光寺領の雄琴荘・苗鹿荘を巡り小槻氏と妙法院門跡との間で訴訟が起こっている。

  小槻氏が壬生家と大宮家に分裂し、壬生家領となった法光寺領はその後戦国時代に六角の支配下となり、六角氏は壬生家に80石(実際には50石)を上納することとなった。

  • 『來迎寺要書』一真雄和尚 

   元亀元年坂本合戦時、当寺什物悉ク手・・・・

  •  一、九月十八日、浅井備前守長政、朝倉左衛門義景、其勢二万八千余騎ニテ、江州志賀郡江打出、小塚山ヲ為本陣、苗鹿、雄琴、乳野、仰木、飯室、絹川(衣川)、堅田辺迄取陣也、此時宇佐山之取出森三左衛門可成五百余騎ニテ志賀表ニ人数ヲ伏置、・・・・云々画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、家、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、空、屋外、自然、水

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/941497362679506

 

 

  • 法光寺 (大津市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
法光寺 (大津市) 本堂.JPG本堂
 

法光寺(ほうこうじ)は、滋賀県大津市苗鹿にある天台宗寺院

歴史

仁寿元年(851年小槻今雄に対し同寺の建つ滋賀郡雄琴・苗鹿(現滋賀県大津市雄琴・苗鹿)の地が与えられ、同寺は小槻氏氏寺として貞観5年(863年)今雄により創建されたとされる。一説には今雄以前に延暦寺末寺として最澄により開基され、那波加神社別当寺であったとも言われる[1]。この地は小槻氏とつながりが深く、地名の「雄琴」は今雄の名に因むとされる。一帯には氏神として、今雄を祀る雄琴神社や小槻氏祖・於知別命を祀る那波加神社が残り、当寺とは神宮寺鎮守社の関係にある。

中世には法光寺領の雄琴荘・苗鹿荘を巡り小槻氏と妙法院門跡との間で訴訟が起こっている。この際には小槻氏の領となったが、小槻氏が壬生家大宮家に分裂すると両者の間で再び相論となっている。壬生家領となった法光寺領はその後戦国時代六角氏の支配下となり、六角氏は壬生家に80石(実際には50石)を上納することとなった。

境内

往時には堂舎24宇・支院僧坊30余寺あったと伝えるが、元亀2年(1571年織田信長比叡山焼き討ちの際に焼失し、延享3年(1746年)再興が図られた。現在は数棟の堂宇が残るのみで、本堂は1916年建造。

元慶8年(884年7月7日に没した今雄の墓とされる。元は境内裏山に残る法光寺古墳群 (3円墳から成り中央主墳が今雄の墓とされる) の墳丘上に建っていたとされる。毎年7月7日、今雄忌として供養が行われている。
  • 苗鹿地蔵堂
苗鹿地蔵は最澄が彫ったとされる「坂本六地蔵」の1つで、境内の地蔵堂の中に立つ。街道沿いにあったが当寺内に移転した。移転前、堂前で大名が落馬したという故事から「すべり地蔵」とも呼ばれ、足腰を守ると言われる。
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査報告9(旧滋賀郡の城)』・遺跡ウォーカー・『江州佐々木南北諸氏帳』『ウィキペディア(Wikipedia)』・法光寺の歴史・『來迎寺要書』

本日の訪問ありがとうございす!!

最新の画像もっと見る