お城のデータ
所在地:長浜市新庄寺町 map:http://yahoo.jp/vDDo-I
別 称:神照寺陣所
区分:城郭寺院
現状:神照寺
築城期:織豊期(城郭寺院化)
築城者:神照寺
遺 構:曲廓・土塁・空堀
目標地:神照寺
駐車場:神照寺の参拝者用無料駐車場を利用
訪城日:2016.3.20
お城の概要・・・萩の寺として有名な古刹がお城跡。
新庄寺城(神照寺:新庄寺町/神照町 )と神照寺城(田地:新庄中町小太郎 )とは、別で混同されているか?
新庄寺城は、その名の通り神照寺が城郭化したものである。鎌倉期には足利尊氏と直義との対面が、また室町期には京極氏の陣所であったり、浅井氏に属し姉川の合戦時に信長によって焼き討ちにあうといった実に多くの戦火を見てきた寺院であった。
寺の東側の稲荷神社・県営住宅も含めた長方形の曲輪であったと推定される。資料によれば、寺の南にある般若院から東の熊野神社境内を結ぶラインを内堀が巡らされ、その外側に更に外堀があったとか。
お城の歴史
神照寺は、寛平七年(895)第五十九代宇多天皇様の勅命により、益信僧正(本覚大師)様が、初代の住職となり、七堂伽藍の具わった古刹を建立したのがおこりである。のち、兵火天災等の為、一衰一興する。
花園天皇様の御代に、足利義政が、堂舎を修補し、中興開基の實雄僧正と共に寺門を興隆し、法流神照寺流を創始する。(寺運の隆盛、三百余坊の堂舎。寺門盛観を極める)
観応二年(1352)九月下旬、足利尊氏公と実弟直義との和解の為、11月2日浅井郡錦織興福寺にて兄弟対面ののち、神照寺に仮泊して帰る。(このとき尊氏公が境内に萩を植えたと伝わる。)
貞治年間 住僧菩提坊隆信本堂を再建企画。新造するが、天災にて焼失
康暦二年(1381)隆信本堂を再建(京都嵯峨天龍寺より、本尊を迎える、入仏落慶は30年後(応永十七年二月五日)執行。
大永三年(1523)京極氏の陣所となり兵火で山内が荒廃、焼失した。のちに、浅井氏が旧観通りに再建、天文年間(1533~1554)に浅井氏が中心となり正月三日に新年茶会を催していた。
元亀元年(1570)姉川の戦いによる兵火で焼失した。
天正元年(1573)小谷城の落城と共に兵火に遭い一時衰退した。
天正十一年(1583)秀吉公が天下を統一すると、安堵状を頂き伽藍の大改修を行った。
徳川の時代に朱印状を賜った。天阿上人が京都の愛染寺より住職となり、寺運の興隆に尽くした。(真言宗醍醐派)。
明治時代中ごろ智山派に転派して今に至る。かつては神照寺流という雅楽の吹奏があり、毎年3月15日の涅槃会に吹奏されていた。
秋には萩咲き乱れる「萩の寺」として有名。『神照寺案内板』より
萩の寺で有名な神照寺は、
土塁
西角の竹藪に残る土塁
西から北へと土塁が残存
駐車場から入った所に低土塁
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、遺跡ウォーカー
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