城郭探訪

yamaziro

月ノ木城(久徳城の出城) 近江国(多賀)

2017年09月15日 | 城郭寺院

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然 画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

お城のデータ

所座地:滋賀県犬上郡多賀町月之木30 map:https://yahoo.jp/-CM00j

別 称:久徳城の出城

現 状:寺院(青龍山 西性寺)

築城期:織豊期

築城者:開祖元亀年間(1570-1573)三修上人  中興 普広正林大徳

城 主:村山氏

目標地:久徳城

駐車場:路上駐車

訪城日:2017.9.5

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

お城の概要

 月ノ木城は、永禄11年(15689月、浅井長政の攻略によって落城していたので、その地に仏堂を建立して、敏満寺より搬出されていた仏像を再祀して、戦死者の菩提を弔ったことに始まる。

ゆえに西性寺の山号である青龍山は、敏満寺の山号であり、西性寺の寺号は、敏満寺山内にあった寺院名であると伝える。

お城の歴史

 月ノ木城は、永禄11年(15689月、浅井長政の攻略によって落城していたので、その地に仏堂を建立して、敏満寺より搬出されていた仏像を再祀して、戦死者の菩提を弔ったことに始まる。ゆえに西性寺の山号である青龍山は、敏満寺の山号であり、西性寺の寺号は、敏満寺山内にあった寺院名であると伝える。

 因みに、浅井長政に滅ぼされた当時の月ノ木城城主は、村山氏であって、伊井直弼大老の寵愛を受けた村山タカ女は、月ノ木城主村山氏の子孫であると伝えられている。

 承和年間(834-847)より元亀3年(1572)までの間、現在の名神高速道路多賀サービスエリアの地に清龍山敏満寺(伊吹山の三修上人が開山)があった。

敏満寺は、元亀3年(1572)の織田信長の兵火にかかり、全山消失してしまった

その際、幾多の仏像仏具が火難を逃れて、隣寺あるいは民家に秘蔵されていた。
 織田信長の法難を被る以前、現在の西性寺が所在する地に、久徳城の出城である月ノ木城があった。

 寛文年間(1624-1644)の中興以後、寺観も漸次調えられると、村山・川上・川口・信楽・北村・山路・山本の各家より住職となる人が出て、寺を営んでいたことが『過去帳』によって知られるが、このような制度は、典型的な氏族による寺院運営制として注目に値しよう。

 太平洋戦争後は、宗教法人法にのっとり法人格を得られたものの、兼務住職による活動によって支えられてきた。現在檀家は、山路氏・山本氏の2家のみである。

その他の写真 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/976847419144500

参考資料:遺跡ウォーカー、青龍山西性寺HP、ヒント:澤田様

訪問ありがとうございす!!


最新の画像もっと見る