城郭探訪

yamaziro

近松別院(近松御坊) 近江国(大津)

2018年01月11日 | 城郭寺院

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お城のデータ

画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外蓮如上人ゆかりの地

所座地:大津市札の辻4-26

築城期:応仁3年(1469) 

築城者:蓮如

目標地:大津赤十字病院

駐車場:近松別院

訪城日:2017.12.19

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お城の概要

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外近松別院 「顕証寺」 【含む 大塚のケヤキ・両願寺・等正寺】
大津市札の辻9-26
浄土真宗本願寺派

浄土真宗本願寺派の寺院。蓮如がここに顕証寺を創建したのが最初で長男順如、六男蓮淳と相続された。寺号は後に久宝寺御坊顕証寺(大阪府八尾市)に引き継がれた。近江における真宗教団初期の拠点。

京阪電車上栄駅下車、徒歩3分、大津日赤の近辺。 幼稚園を併設

正式には顕証寺であるが、一般には近松別院・近松御坊と呼ばれている。

お城の歴史

比叡山による堅田攻めの気配を察知した蓮如は、1469年に堅田から避難し、園城寺・五別所の一つ近松寺(高観音)の寺領を分与してもらい、坊舎を建立、親鸞上人の御像を安置したことに始まると伝えている。

このあたりは寺内(じない)と呼ばれ、江戸時代、近松寺を中心に、南・北・東の各町や末寺が取囲むという形の「寺内寺」という形態をとっており、大津代官支配の大津百町とは別に、独自の政治が行われていた。

昭和20年(1945)、陸軍の命により取り壊され

現在の建物は昭和56年(1981)に建立された。

浄土真宗本願寺派の寺院。蓮如がここに顕証寺を創建したのが最初で長男順如、六男蓮淳と相続された。寺号は後に久宝寺御坊顕証寺(大阪府八尾市)に引き継がれた。近江における真宗教団初期の拠点。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然昭和20年(1945)、陸軍の命により取り壊された。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

 
浄土真宗中興の祖・蓮如上人と、三井寺の出会い。
大衆に支持された人間蓮如。その行動力の源は…。
京阪電車京津線、上栄町駅の踏切近くに樹齢数百年は経つと思われる欅の大木ある。そのふもと「犬塚の欅」の碑には、今回の特集、蓮如が法難を避けて大津に滞在していたとき、毒を盛られた食膳を食べて死に、蓮如の命を救った犬を葬った塚であると記されている。また、逢坂一丁目の安養寺に伝わる「身代わり名号石」は、本願寺焼き討ちの後、逢坂で追手の比叡山延暦寺の衆徒に襲われた蓮如を身代わりとなって守ったという。

蓮如にまつわる様々な伝説や言い伝えは、布教活動の拠点、大津や堅田、守山(金森・赤野井)あたりに沢山残っている。中でも有名な「かたた源兵衛の首」の話は後に述べるとして、人間蓮如の人となりに稿を進めたい。

蓮如上人(一四一五.一四九九年)は本願寺第七世存如の長子として生まれる。幼名は布袋丸と呼ばれていた。本願寺は浄土真宗の祖、親鸞聖人の御影堂(廟所)であった。現在の本願寺とは比べものにならないほど、四軒幅の小さな寺であった。親鸞聖人没後、すでに百数十年が経ち、その遺徳をしのび本願寺へお参りする人も少く、本願寺はさびれ、しかも極貧状態であった。また母親は寺の下働きをする女性で、いわれもない差別を受けていた立場の女性だったという。

蓮如は本願寺で親鸞聖人の教えを解釈し、布教活動に専念、四十二歳で第八世を名乗る。蓮如は自分なりに平坦な言葉で浄土真宗の教え「御文(御文章)」を表し、文字の読めない農民、土地を持たない小作人、職人など下層社会に属する人たちの圧倒的な支持をえる。時あたかも南北朝時代末、朝廷が支配していた荘園制度が瓦解しようとしていたときである。

そんな大きな仏教界のうねりに危惧を抱いた比叡山延暦寺の衆徒は、寛正六年(一四六五)、本願寺を破却(焼き討ち)。寛正の法難として名高い。

犬塚の欅
(大津市指定天然記念物)


親鸞聖人・蓮如上人連座像(いずれも本福寺所蔵)


本福寺第三世・法住法師像


本福寺本堂内、蓮如殿に祀られる蓮如上人像。この蓮如殿は三井本家の寄進になるもの。


堅田、守山、そして北陸…大津でひととき安らぐ。

京から敗走した蓮如は、近江の国・堅田の本福寺住職の法住の世話になる。堅田は琵琶湖の西部に位置し、湖上交通の拠点として発展した自由都市的な賑わいを呈していた。本福寺住職法住は、その豊かな経済力を背景に、小作人や職人、など下層社会に属する人たちに教えを説くため、道場を開いていた。浄土真宗の教え「念仏」をとなえれば救われると教えた。蓮如は比叡山のふもとで法住と共に、新しい教えを説いた。応仁二年(一四六八)、再び山門の大がかりな攻撃を受ける。世にいう「堅田の大責」である。

蓮如は失意の中、五十七歳という当時では老齢の域に入った身を震い、浄土真宗の教えを広めるため越後、加賀地方へ旅に出る。今も北陸は真宗王国といわれる所以である。北陸地方にも、これが蓮如の座った石、使った筆・硯などと虚実入り交じった伝承が残っている。蓮如が北陸布教の拠点として選んだ吉崎(福井県金津町)は、日本海を望む北潟湖の入り江に突き出した半島の高台にある。吉崎に坊舎を構えた蓮如は、飢餓で苦しむ農民や、宗門内部の対立など問題の解決に奔走し、わずか三年で本堂、坊舎、庫裏、書院、楼門などを備えた一大寺院を築く。そして、都からやってきたありがたいお坊さんを拝みたいという素朴なお参りの人たちが大挙して吉崎に訪れる。それは、暗く厚い雲に覆われた北陸の地に現れた、蜃気楼のようだったに違いない。しかし、急速に巨大化した教団とその元に入る膨大な資金をめぐっての内部分裂、二千人以上の死者を出したという地侍と門徒集団のたび重なる戦い…。蓮如はその蜃気楼で出来た牙城を失意と共に去る。のち、天下統一をはかる織田信長の勢力と門徒衆が戦った一向一揆が勃発する。

参考資料:JAPAN-GEOGRAPHIC.TV、蓮如と三井寺の出会い(三井寺のHP)

本日の訪問ありがとうございす!!


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