城郭探訪

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明智左馬之助 湖を駆ける!

2014年06月24日 | 武将

 

明智左馬之助湖水渡りのところ 

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀は主君・織田信長を本能寺に攻めて自害させ、天下を奪ったが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、その野望は消え失せた。光秀の弟左馬助光春は、信長の居城・安土城を攻めていたが、兄の死を聞いて急ぎ坂本城へ引き返す途中、打出浜より路を湖水に求め愛馬にまたがりびわ湖を渡り坂本に帰った。しかし、時すでに遅く、秀吉の軍勢に囲まれ、6月14日、光秀の妻子らとともに、城と命運をともにした。湖水渡りの勇姿は、今も講談などで語りつがれている

  

明智左馬助の湖水渡り(歌川豊宣画「新撰太閤記」)

 
明智左馬助湖水渡りの碑(滋賀県大津市打出浜)

坂本城の推定城郭部分/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

 
 

前半生

『明智軍記』などによると、秀満(同史料では「光春」)は明智氏の出身とされる。明智光秀の叔父である明智光安の子(「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると次男)であり、光秀とは従兄弟の関係にあったとされている。別号として三宅氏を名乗った時期もあるとされている。

秀満の前半生は『明智軍記』を始めとする俗書でのみ伝わっている。

明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが、弘治2年(1556年)斎藤道三と斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城する。その際、父は自害するが、秀満は光秀らとともに城を脱出し浪人した。

後半生

天正6年(1578年)以降に光秀の娘を妻に迎えている。彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた。その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは、天正10年(1582年)4月である。

天正9年(1581年)、丹波福知山城代となる。

天正10年(1582年)、光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との山崎の戦いでは光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入った。

  秀吉方の堀秀政軍に城を囲まれた秀満は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考え、それら名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろした。そして「寄せ手の人々に申し上げる。堀監物殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」と叫んだ(『川角太閤記』)。しばらくの後、直政と秀政が現れ「目録の通り、確かに相違ござらぬ。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がござらぬのは、如何いたしたのか」と返すと「その道具は信長公から光秀が拝領した道具でござる。

 吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉殿の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと、内々に秘蔵されていたものなので、我が腰に差して、光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」と秀満は返事し、秀政・直政らも納得した。

6月15日の夜、秀満は光秀秘蔵の脇差を差したまま、光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺しあるいは介錯し、自ら城に火を放って自害したとされる。享年は俗書に従えば47。『兼見卿記』では、同年に処刑された秀満の父(名は不明)は享年63とされる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

 

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