城郭探訪

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ブロガー情報発信【沖島周辺を訪ねて~近江八幡市~】 INDEX

2013年09月13日 | INDEX

滋賀県近江八幡市沖島町に属する。約350人が居住する有人島で、島の南西部に集落が形成されている。市立小学校や郵便局なども設置されている。淡水湖に浮かぶ島に人が住んでいるという例は日本では唯一。

観光案内などでは世界的に見ても珍しいとされることがあるが、実際には世界各地に湖上の有人島は数多くある。島では自家用車並みに、一軒に一隻以上の船が所有されている。

戦国時代には琵琶湖水運の重要拠点としてここに関所が設置されていた。ここを通過する船は陸上の関所と同様に関銭を徴収される代わりに沖島の住民によって航行の安全が保証されていた。この島の関所は当初は六角氏の影響下にあったが、後に本願寺系の自治都市堅田の保護を受け、更に織田信長の近江平定に従って関所の存続が特に許され、豊臣政権下の天正13年(1585年)頃まで存在していた。

2013年6月離島指定基準の見直しにより国土交通省の諮問会議により離島地域に加えられることが決定した。

・堀切港と通船おきしま

 

http://www.youtube.com/watch?v=zYRUi0PABAg

http://www.omi8.com/access/okisimahunezikoku.htm

・沖島歴史年表

・おきしま資料館

古い民家を改築してつくられた「おきしま資料館」。開館はわりと新しく2005年。                                                       漁具や島民の生活用具などが展示されているらしいが、月曜日は休館。入館料:200円。

沖島の歴史

万葉集などにも沖島に関する詩が見受けられる事や大正期に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混ざって縄文土器や和同開珎が発見された事があるなど、かなり以前から沖島付近に人々の往来はあったと思われます。
 和銅年間に近江の国守であった「藤原不比等」(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立し、奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に沖島に一時期住んだと伝えられています。しかし、本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
 琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にあり、この事は数々の歴史書に見受けられます。
 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。
 また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされ、戦国時代には、織田信長が浅井長政に対して行った「手筒山の戦い」や「小谷城攻め」の際に、島民に船を差し出すよう命を出し、これらの一戦で活躍したことにより、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されています。文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍し、(管浦観音寺文書)、関ヶ原合戦後の徳川家康による石田三成への「佐和山城責め」においても水軍として活躍(沖島共有文書)しました。以後も、時の権力者から、航路の警備、輸送等の重要な任務を務める見返りとして、漁業権の特権は認められ続けました。
 徳川時代にも慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても京都町奉行で沖島側主張が受け入れられ、明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められましたが、最終的には戦後の漁業法改正により消滅しました。

    

・奥津島神社

和銅5年(712年)に勅命を蒙った藤原不比(藤原鎌足の次男)等によって創祀されたと伝わる。『延喜式神名帳』に記載された名神大社とされる。奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に沖島に一時期住んだと伝えられています。

  

奥の院へ

・沖島 城跡

 本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
 琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にあり、この事は数々の歴史書に見受けられます。
 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。
 また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じた。

・石切り場

江戸時代から昭和40年代まで、沖島は採石場として栄えました。

石英班岩と呼ばれる良質の石は、明治時代の琵琶湖疎水、南郷洗堰、国鉄東海道線などの工事に使われたのだそうです。

 

・西福寺

7人の落武者の一人:茶谷重右衛門の末裔が蓮如(本願寺第8代上人)に帰依し庵を建てたことに始まります。

寺宝には蓮如上人直筆の虎斑の名号(とらふのみょうごう)と正信偈(しょうしんげ)が残されています。

 虎斑の名号/正信偈

 茶谷重右衛門の妻が産後間もなく死亡したことで、子供いとおしさに幽霊となって現れるようになった。茶谷重右衛門(法名:釈西了)がこのことを不憫に思い、氏神に祈ったところ、夢の中で、「明日蓮如上人が来られるので、お願いするように」とのお告げがあり、翌日偶然にも越前吉崎御坊から堅田本福寺に向かう途中に遭難し、沖島に立ち寄った蓮如上人にお告げのことを話したところ、上人は幽霊を教化するため六字の名号(南無阿弥陀仏)を与えられた。これらはムシロの上で書かれたため、南無阿弥陀仏の字が虎斑のような濃淡が出ているので、俗に「虎斑の名号」と呼ばれています。正信偈(四句の御文)は蓮如上人が島を去る際にお別れの形見として残されたものです。

        

・伊崎寺

伊崎寺概要: 伊崎寺の創建は不詳ですが奈良時代、役小角が開基したのが始まりと伝えられています。貞観年間(859~77)、相応(比叡山回峰行の創始者)が再興し比叡山延暦寺の末寺となりました。古くから修行道場として知られ、荒行の1つで琵琶湖に面する断崖絶壁の上に建立された竿飛び堂から突き出した棹の先端から琵琶湖に飛び込む「竿飛び行事」が引き継がれています。

 

・昼食 あじさい村(味彩村)

住所:滋賀県近江八幡市大中町405−2

・長命寺

御詠歌:八千年(やちとせ)や柳に長き命寺(いのちでら)運ぶ歩みのかざしなるらん

琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る800段余の長い階段で知られる。かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島宝厳寺から船で長命寺に参詣した。

伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。                                            このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。                                                                                      その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。                                                                                    太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。

実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の初見は、承保元年(1074年)3月2日付の「奥島庄司土師宿禰助正解文」(おくしましょうじ はじのすくねすけまさ げぶみ)という文書である。

長命寺には中世以降の文書が豊富に残されている。                                                                                  それによると、中世の長命寺は比叡山(延暦寺)西塔の別院としての地位を保ち、近江守護佐々木氏の崇敬と庇護を受けて栄えていた。しかし、永正13年(1516年)、佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍は全焼。

現存する堂宇は室町時代から近世初期にかけて再建されたものである。

秘宝曼荼羅

近江八幡市長命寺町の穀屋寺の倉庫から、「長命寺参詣曼荼羅(まんだら)」三点、「熊野観心十界曼荼羅」二点、「古文書」千点が、このほど発見された。
 穀屋寺は、長命寺の米穀出納のほか、災害や兵火によって失った寺の再建・修復のために各地を巡って浄財を集める勧進(かんじん)を担当した寺で、越前国織田(現・福井県越前町織田)出身の春庭慈芳尼(しゅんていじほうに 一四九二―一五四七)を中心とする勧進聖(ひじり)集団による勧進活動の拠点となっていたと思われる。長命寺は、永正十三(一五一六)年に兵火で本堂など主な堂舎が焼失している

 「長命寺参詣曼荼羅」はこれまで長命寺と個人所有の二点が知られていたが、今回、同一場所(木箱)から同時に三点が発見されたのは画期的。

 また、「熊野観心十界曼荼羅」二点といっしょに、同じ木箱に五点とも折り畳んだ状態で納められていた点で通例掛け軸などに仕立て直されて発見されるのがほとんどであるのに比べても珍しく、使用状態を物語るものとしても意義は大きい。さらに、七点もの曼荼羅が一つの寺で見つかるのも全国的に珍しい。
 「長命寺参詣曼荼羅」には長命寺の本堂や三仏堂、三重塔の建物や参詣者のにぎわいなどが克明に描かれており、勧進聖などが絵解きをしながら寄付を募った。

・大中湖と西の湖

 

琵琶湖の東岸に位置し、かつて40数か所あった琵琶湖の内湖の中で最大の面積を有した。行政区画としては、近江八幡市、神崎郡能登川町(現東近江市)、蒲生郡安土町(現近江八幡市)におおむね均等に三分割されていた。戦後に干拓されて農地となった。

 

大中湖は琵琶湖中央部の東岸に位置し、沖合約2kmには琵琶湖最大の島である沖島が浮かんでいる。大中湖と琵琶湖は砂州で区切られており、湖面標高84mの琵琶湖に対して大中湖の湖面標高は81mだった。直径4kmのほぼ円形であり、隣接して小中湖(伊庭内湖、安土内湖、西ノ湖の総称)があった。湖底は平坦で浅く、水深は最大でも2.7mしかなかった。面積は15.4km2である。周囲一帯は内陸性気候であり、冬期には他の湖東地域よりも積雪が多い。米原市から近江八幡市にかけての湖東地域にはかつて内湖が点在しており、大中湖以外の主要な内湖を以下に挙げる。湖東地域と湖北地域の総干拓面積は2521.3ヘクタールであり、琵琶湖の面積の3.7%である。戦後には特に琵琶湖南湖において、リゾート施設や公共施設建設のための湖岸埋め立てが行なわれたが、これらの総湖岸埋め立て面積は336ヘクタールに過ぎない。

 

 

滋賀県安土町から近江八幡市に跨る内湖。
近江八幡から安土にかけての広大な農地の中にある。
流入する河川はほぼ南から、流出する河川は放水路の長命寺川が主。
かつては近接して安土内湖等があったが、現在は西の湖を残し干拓されている。
往時の安土水郷の情景は西端の園地に色濃く残っていて、水郷めぐり観光が人気。湖岸には広大なヨシ原が残り、今も葭細工に重宝される。

・タイムスコープVR安土城再現

タイムスコープVR安土・・・youtube(要准)

安土城があった時代の風景を楽しむアプリ 近江八幡市がiOS用アプリ「VR安土城タイムスコープ」を無料公開

2013年4月8日、近江八幡市はiOS用アプリ「VR安土城タイムスコープ」を無料公開しました。

このアプリは、安土城が存在した風景をiPhoneあるいはiPadを通じて眺めることができるもので、安土城大手門前で利用すると、かつてその場所から見えた当時の城郭がフルCGパノラマで再現されるとのことです。

 

・劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日

NHKの人気TVシリーズが豪華キャストを迎え、待望の映画化!!

未来の通信社の記者=時空ジャーナリストが、タイムワープ技術を使い、教科書に載らない名もなき人々に密着し、歴史の真実をドキュメンタリータッチの取材映像であぶり出していく――。その独自のコンセプトが話題のNHK「タイムスクープハンター」が、遂に映画化!
劇場版の舞台は、織田信長が天下統一の拠点とするも、謎の焼失を遂げた“安土城”。
臨場感溢れる映像で、未だ解明されない歴史の謎に迫っていく。
出演は、テレビシリーズから引き続きとなる要潤、杏に加え、夏帆、時任三郎ら豪華キャストが顔を揃えた。スケールアップした「タイムスクープハンター」で、戦国乱世の最前線を体感せよ!

 

おまけ!

youtube琵琶湖に浮かぶ暮らしがある島 沖島 http://www.youtube.com/watch?v=EfzQwMm4AQI

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!

 


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