お城のデータ
所在地:高島市(旧高嶋郡)高島町伊黒 map: http://yahoo.jp/TDFlWD
区 分:平山城
現 状:小学校跡http://yahoo.jp/TDFlWD
築城期:室町期
築城者:浅賀氏か
遺 構:削平地、土塁、石垣
目標値:伊黒会議所・日吉神社
駐車場:伊黒会議所
訪城日:2015.12.23
お城の概要
伊黒城は、鴨川の谷戸に突き出した舌状台地を利用した城です。伊黒は高島と朽木、ひいては京を結ぶルートを押さえる要衝の位置にあります。伊黒の集落のある台地は、三方を崖と鴨川の支流に囲まれた天然の要害地形を成しており、台地全体が城域とみられています。ただ、その範囲や遺構については不明瞭な点が多く、いまだに謎を秘めた城といえます。というのも、現状からなかなか城としての伊黒城の姿が想像しにくいためと思われます。長らく比叡山の影響下にあったということからも、伊黒城は集落をそのまま城塞化したものと考えられています。
わずかにたどれる城の痕跡としては、まず台地の東端近く、小学校があったとされる跡地のあたりを字城垣内(じょうがいと)と呼び、居館跡といわれています。集落内でも比較的広い削平地なのですが、これが学校の造成によるものなのか遺構なのかは判別不能です。 『集成』では、集落背後の一段高い台地を詰城的な曲輪跡と推測しています。こちらも見通しの利く平坦地形ですが、さらに、『集成』では川を挟んだ西側にある日吉神社境内にも曲輪が置かれていたと考えています。日吉神社には本殿を囲むように、土塁あるいは櫓台状の土盛りがあります。これが城の遺構とすると、伊黒城でもっとも良好な遺構ということになると思われます。
お城の歴史
『高島町史』の「伊黒村篠目帳」に、応永二十六年(1419)、延暦寺が伊黒村一帯を支配する浅賀左近尉を滅ぼしたとある。このことから、『中世城館調査報告書集成』では、伊黒城は浅賀氏(あるいは浅賀氏以前の在地領主)によって築かれたと推測している。
伊黒にある日吉神社は、明応年間(1492~1501)に延暦寺下司職林右京亮によって創建されたと伝わる。
高島郡誌には、「或は言う 伊黒城は打下城林与次左衛門が出城なり」とあり、右京亮は与次左衛門の一族と推測される。
このことから、『日本城郭大系』では右京亮が打下城の支城として伊黒城を築いたのがはじまりとしている。
永禄年間(1557~69)ごろから、「法泉坊」なる山徒が城主として現れる。法泉坊は、比叡山の元衆徒で、姓名を新庄俊長といったとされる。『郡誌』には「吉武法泉坊」ともある。同じ比叡山門徒による城主の交代があったことになるが、その経緯は不明である。
『浅井三代記』は、永正15年(1518)浅井亮政が赤尾駿河守に3,500余騎を与えて、8月15日に高島玄蕃の大溝城を攻略させ、さらに伊黒城、深溝城、小松城、真野城を降伏させて、8月26日小谷に帰陣させたと記すが、浅井氏が高島郡を征服したのは、朽木氏が浅井氏と和した永禄11年(1568)とすべきと指摘している。 浅井氏の高島郡支配時には、家臣の海津氏や林氏が城主であったが、その期間は織田信長が高島郡を攻略する天正年間初頭までの5~6年であった。
法泉坊は浅井氏に属していたが、天正元年(1573)に織田信長の攻勢に屈して降伏した。しかし、同年中に浅井長政の攻撃を受けて攻め滅ぼされた。その後の伊黒城については不明である。
正念寺
日吉神社
伊黒会議所に駐車
小学校跡
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査8 高島郡の城、『日本城郭大系』11『近江国輿地志略』、遺跡ウォーカー、浅井三代記
本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!