布施神社参道
布施公民館
殿屋敷・・・布施館跡
所在地:八日市市布施町 map:http://yahoo.jp/sCnd3f
現 状:水田
築城期:室町期
築城者:布施氏本家 布施三河守
城 主:布施三河守
区 分:居館
目 標:布施公民館
駐車場:布施公民館
訪城日:2014.7.6
お城の概要
現在の布施公民館の東側一帯が館跡といわれており、現在では遺構はない。が、南西約1kmに詰め城の布施山城が現存する。
布施公民館の近くで古老の話によると、公民館の裏は下屋敷跡と云われていたと云う。また、近くには"的場"という地名も残る。
歴 史
大洞弁財天本地蔵「当国古城主名札」に布施三河守の戒名は【大雲院 殿餐山清倫大居士】と記されている。
布施氏は佐々木六角氏の家臣で、本家筋と見られる三河守家と分家筋の淡路守家に分かれていた。布施山城の城主は三河守家で、淡路守家の城は東方5kmにある大森城とされている。
永禄6年(1563)六角氏被官の後藤氏が観音寺城内で六角義弼に誅殺されると、これに反発した家臣が自領へ引き上げる「観音寺騒動」が起き、布施氏は永禄9年(1566)浅井氏と呼応して布施山城に拠って六角氏に反旗を翻した。甲賀の三雲新左衛門らに攻撃させた。
この騒動は、蒲生氏の調停によって収拾されたが、六角氏の権限を大幅に規制する「六角氏式目」が結ばれた。
布施氏は、永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻に対し、この城に籠ったが敗れ、廃城となった。
なお、分家筋の布施淡路守の子・藤九郎は上大森に住み、織田信長に仕えた。
なお、布施町に布施の名のる家は無い。
しかし布施氏末裔の田原さん宅には反六角の旗頭であった布施氏三河守の位牌が伝えられている。
高さ40cm、位牌の黒塗りはすでに光沢を失い生地がが現れている。
【大雲院 殿餐山清倫大居士】裏には【布施三河守定行】と俗名がが書かれている。(郷土史家 中島氏・・末裔の田原氏からの聞き取り)
布施氏邸
布施氏は市邊村布施を本據とすれども一族繁茂して後は瓜生津に住めしものあり、佐々木南北諸士帳に瓜生津城主布施九朗 布施九郎左衛門 布施新藏人等名を記す、大字布施にも城屋敷と偁する所あり、布施氏在住の邸と傳ふ。・・・蒲生郡誌八巻三八八頁
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、蒲生郡誌、ウィキペディア
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