城郭探訪

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姉川古戦場 浅井長政と陣田 血川と野村

2013年07月01日 | 陣城

  浅井長政と陣田

当地は姉川合戦の際、浅井軍8000人(陸軍参謀本部編纂『日本戦史』による兵数)を率いる長政本陣があった場所と伝えられます。合戦当日の元亀元年(1570)6月28日の前日まで、浅井長政は北方に見える大依山に布陣して、姉川対岸の織田・徳川29,000人(同前書による)に及ぶ軍勢の動向をうかがっていました。

しかし、28日未明に至り、重臣の遠藤直経の進言に従い、当地に軍を進めたとされます。昭和60年に完成した野村町の圃場(ほじょう)整備まで、当地には「陣田」と呼ばれる小高い丘が存在し、浅井長政の本陣跡と伝えて来ました。野村に展開した浅井全軍を見渡せる格好の位置は、伝承の正しさを物語っていると言えるでしょう。

なお、野村集落内には、現在も複数の土塁が認められ、野村氏や多賀氏などの浅井氏家臣屋敷の痕跡と考えられていますが、姉川合戦では浅井軍の陣所として使用された可能性もあります。

  

 

血川と野村の史跡(野村町)

この場所は、元亀元年(1570)6月28日に起きた姉川合戦に際して、浅井長政の軍隊が陣を置いた野村集落の南に当たります。対岸の織田信長軍と戦った浅井軍は、最初優勢でしたが、西美濃三人衆や徳川軍の加勢を受けた信長軍の攻勢により、敗退したと伝えられています。

この案内板の下には、かつて姉川合戦に際して血に染まったと伝えられる血川が流れていました(その川幅は、この看板の幅と同じです)。おそらく、信長軍によって追い立てられた浅井軍の将兵の血が流れたと考えられますが、昭和60年に完成した野村町の圃場(ほじょう)整備により流路がなくなりました。なお、ここから約300メートル南東にある「塚町」は、合戦の戦死者を葬った場所とも言われ、血川との関連が想定されます。

真柄の大太刀が!刃長(約175センチ)の大太刀(説明板の上に)   刃長5尺3寸(約175センチ)の大太刀を振るって奮闘した、真柄(まがら)十郎左衛門直隆 

江戸時代の儒学者山鹿素行が著した「武家事紀」に、徳川家家臣向坂六郎五郎吉政の戦功についての記述がある。そこには、元亀元年(1570)の姉川合戦において、吉政が越前国人衆真柄十郎左衛門直隆を討取った時の様子が以下のように書かれている。

 十郎左衛門は五尺三寸の大太刀を振り回し、六郎五郎の親族六郎左衛門式部(吉政の子?)と槍を交えた。式部が兜の吹返しを砕かれ槍を落としたので、弟の五郎二郎が入替わり渡り合った。そこに、六郎五郎吉政が郎党の山田宗六と助太刀に入った。十郎左衛門は五郎二郎と山田宗六を切伏せたが、その隙に吉政の十文字槍で討たれ首を取られてしまった。吉政は最初に槍をつけた式部に首を取るよう云ったが、辞退したので吉政が十郎左衛門直隆の首を取ったという。

合戦直前の6月24日、浅井長政は援軍に来た朝倉景健と姉川の北方3キロに当たる大依山に布陣しました。合戦当日の28日未明、長政・景健の両将は姉川北岸に前進、織田・徳川軍と決戦を決断しました。朝倉景健の本陣は、この北西にあたる三田集落内の三田村氏館におかれ、徳川家康の本陣がおかれました。その中間にある当地は、両軍の決戦の地となった場所で、多くの戦死者の血で染まったので「ちはら」と呼ばれています。

両軍の戦いで、最も有名なのが朝倉軍の武将で、刃長5尺3寸(約175センチ)の大太刀を振るって奮闘した、真柄(まがら)十郎左衛門直隆の討死です。最初徳川家康の家臣、向坂(さきさか)式部と渡り合っていましたが、途中からその弟の向坂吉政が十文字槍をもって助太刀に入り、真柄の首を討ち取ったと言われています。(『信長公記』には真柄の首を取ったのは青木一重と記されており、諸本によって多少異なるようです)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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