城郭探訪

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探訪 【佐久良城 近江国】2013.4.1

2013年04月03日 | 平城

小倉実澄が拠った佐久良城
・右:現地説明板の案内図
 

小倉氏が室町時代初期に築き、本拠とした佐久良城址。地元では「下の城山」と呼ばれ、応仁の乱に際して小倉氏に庇護された京都相国寺の僧横川景三の書に詳しく書き記されている。城址は八幡神社の後方の山全体で、土塁・堀切、城内庭園・石垣などが確認でき、中世城址として貴重な遺跡となっている。
城址を歩くと本丸に続く土橋の両側の深い堀切、そして本丸を囲む土塁の高さに驚かされる。土塁・堀切には石垣の跡、搦め手から北方に歩くと竪堀、北側の土塁で囲まれた道を進むとお馬洗いの池に出る。いまも水をたたえる様子から、佐久良城の重要な水の手であったことがうかがわれる。佐久良城の大手には小倉氏が勧請した八幡神社が鎮座し、また、南側すぐのところに菩提寺であった神護山仲明寺が小倉氏の名残を伝えている。

城址登り口(パンフレットあり)

 室町時代中期に至って、小倉家は庶子家を分出、宗家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とした。さらに、本城のすぐ東にある長寸山頂上に長寸城、奥師に四谷城、鳥居平に鳥居平城等を築き、それぞれ家臣を入れて守らせた。


 さて、近江小倉氏においてもっとも著名な人物が、前述した小倉左近将監実澄である。実澄は三河守実方の嫡男で、蒲生秀綱の姉を母に生まれ、蒲生氏を継ぎ中興の祖といわれる貞秀(智閑)と同時代を生きた。また、実澄の室は蒲生秀綱の女で、貞秀の室とは姉妹という関係であった。
 二人が生きた時代は応仁・文明の乱の真只中であり、実澄と貞秀は義兄弟ということもあり協調して乱世に身を処した。横川景三の題した『小倉実澄寿像賛』によれば、実澄は多賀高忠と行動をともにして、犬上郡八尾城に出陣したとあるように、応仁の乱において京極方=東軍に属して活躍した。
 実澄は宋学を好み、禅に入り、詩歌に長じる一方、射術を多賀高忠に学び、世の人から文武兼備の武将と讃えられ、応仁・文明の乱において焼け出された相国寺などの禅僧を近江に招いて庇護を与えた。そして、文明元年(1467)、永源寺畔の越渓に識廬庵を作って相国寺の横川景三らを招き、翌二年、横川は識廬庵の記を著している。かくして、戦乱のなかにあって実澄は、おりをみては佐久良城から識廬庵を訪ねて横川らと詩酒交歓し、禅を談じたと伝えられている。


 系図によれば、実澄は永正二年(1505)三月に死去している。そのあとは実重が継ぎ、実重も蒲生氏から室を迎えている。実重のあとを継いだ実光は「さねはる」と読み、弘治三年(1557)に伊勢征伐に出陣した実春と同一人物と思われる。実光には男子がなかったため、蒲生定秀の三男実隆が迎えられて小倉氏の家督を継いだ。

馬洗いの池跡

 

【火薬庫】にも、なった古墳

 

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