城郭探訪

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・乎弥神社、乃弥神社、意波閇神社

2013年09月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

乎弥神社

余呉町下余呉

乎弥神社は江土集落

乃弥神社は現在地より、南方の奥の堂という平坦地に鎮座していたという。冬季の雪害により、寛延二年(1749)に乎弥神社に合祀。

御由緒
 
祭神:巨知人命(おうしりびとのみこと)・梨津臣命(なしとみのみこと)・海津見命(うみつみのみこと)
創祀は伝えるところによれば、人皇第10代の御代に、余呉湖辺一帯を開拓し文武両道にすぐれ、住民に農耕の業を奨めし、天之児屋根の命第10世の孫巨知人命の後裔が、同命を祖神として祀り、後又巨知人命の御子梨津臣命が威徳優れ、この地の開発に努められた恵沢を憶って別殿に奉祀した。これ当社の始めである。
 又承応3年余呉湖引水堀割工事を起し、当社前に川を通し下流の灌漑に供したり、依而海津見命を勧請し奉れりという。是れ余呉湖に縁故を有する所以である。明治の末年迄当社鎮座の地域内に別に村草神社、大名持神社、塞神社、八幡神社がそれぞれ鎮座されてあったが時の政府の指示によって当社に合祀されるに至った。
 斯く街道通行の守護神が祀られるにいたったのは北越に至る要地であると共に、権現坂を経て西近江に到る分岐の路の基点でもあったのでこれらの神々が祀られるに至ったものと考えられる。延喜式内社。

下余呉には「式内社」と伝えられる神社が二社あった。乎弥神社と乃弥(のみ)神社である。古記によれば、乎弥神社の祭神は巨知人命、乃弥神社の祭神は梨津臣命であったが、賤ケ岳合戦により焼失、そのため両社を合祀して、乎弥神社としたという。
巨知人命と梨津臣命は、この地域を開発した人々の、祖先神とされるが、「帝王編年記」では、余呉湖の天女が生んだ兄弟とされている。
江戸初めからは、海や湖を掌る海津見命も祀るようになった。余呉湖とは深い関係にある神社である。

 

意波閇神社

創祀年代は不詳。

祭神は、大鷦鷯命(仁徳天皇)。大鷦鷯命の後裔が祖神として奉祭したという。
八幡系の祭神だからだろうか、神紋は巴紋。一説には埴安姫神。

社名の「意波閇」の読みは、「いはへ」「おはへ」などがあるらしいが、「おはへ」とも。

境内は「平野の森」とも称され、平野大明神とも呼ばれていたという。

北陸街道の要路に鎮座しており、越前への道の要衝。

ただし、天正の賤ケ岳の合戦のおりに兵火のため焼失した。その後、現在地に遷座し、社殿を造営、再建された。

境内末社の坂口神社は大山咋命を祀っている。鎮座地の坂口を社名に持つこの社が少し気になった。
元は、こちらが本筋だったということはないだろうか。

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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