城郭探訪

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国友城    近江国(長浜)

2016年01月17日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市国友町 map:http://yahoo.jp/A849V9

現 状:畑地・宅地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:国友氏

目標地:国友鉄砲の里資料館

駐車場:国友鉄砲の里資料館の駐車場利用

訪城日:2016.1.10

お城の概要

 「国友鉄砲の里資料館」のある通りの西側、ちょうど遍増寺の南側辺りに「殿やしき」ち呼ばれているところが国友城のあったところ。 現在は全面畑地で、周囲を流れる用水路は堀痕。

国友は有名な鉄砲鍛冶が栄えた場所で集落内も整備されており、城址には、遺構も無く、資料館を中心の散策する。

国友城の比定地 城址には、住宅が建たぬと云う。ここも例外ではないようよだ。

国友伯耆守・国友兵庫介の屋敷跡

歴 史

国友の由来は平安時代 に始まる。

国友の由来は、中世福永庄のうちで、文明18年11月3日の角氏棒行人奉書に「福永国友」永正14年8月日の米布施御影供新寄進帳に「国友」と見える。

『江州佐々木南北諸氏帳』に、「坂田郡 国友 住 富岡藤太郎」の名を記す。

国友城は、戦国時代に国友伯耆守等の名が文献にあり、国友氏を称する豪族が居城していた。

宮部継潤(宮部城主)は信長に恭順の姿勢を見せるために、

野村氏は佐々木六角氏の流れ汲む一族で浅井郡野村に住んでいたので野村姓を名乗った。その後いくつかに分かれるが全て浅井氏に従った。

浅井氏旧臣 野村直隆(近江国友鉄砲村の支配者)永禄13年(1570)、織田氏から横山城を死守し、横山城救援に来た浅井勢との間に姉川の戦いが起こる。合戦後、横山城を開城し、小谷城へ退く。

宮部継潤(宮部城主)は信長に恭順の姿勢を見せるために、1571年国友(国友の砦)を守備していて宮部継潤の来襲を退ける。狙撃したのは兵庫守の娘婿富岡藤太郎という鉄砲名人で元亀2年5月琵琶湖上から秀吉を狙撃したこともあった。継順の首を取ろうと近づいた藤太郎を友田近右ェ門が突き倒し、継潤に肩を貸して辛うじて戦線を離脱する事が出来た。

浅井氏滅亡後は織田家に臣従し鉄砲頭で2万石。羽柴秀吉の長浜支配が、堀秀政に譲り渡された時点で信長の直参になった。最初から信長様の直轄地代官だったか?。

 

・・・国友鉄砲一番手柄・・・

信長の部下であった秀吉は、この戦いを一日も早く終らせるため、浅井方についていた宮部城の城主宮部継潤に、信長の味方になることを勧め、継潤は浅井方に勝つ見こみのないことをさとり、勧めにしたがって信長の味方になりました。継潤は信長の味方になったことを他の武将に知らせ、信長への忠誠を示すために、姉川をはさんで2キロメートル南にある国友城を攻めた。 継潤は300人の部下をひきいて国友城に押し寄せました。かねてこのことを予期していた国友城では、これも同じく300人の軍勢で城を出て姉川の堤に出て防ぎました。戦いは姉川を舞台にくりひろげられました。継潤は先頭に立って、命令しました。

「野村を討ちとるのは今だ。ものども続け。遅れるなっ」
「ひきょう者の宮部勢。裏切り者の継潤を生かして帰すな」

 国友方も槍をかざし刀をふりかぶって応戦します。3年前の姉川合戦の再現です。あちこちに組打ちが始まり、勝名のりの声がひびきます。大将同志、宮部潤継と野村兵庫頭も、いつの間にか馬をひきよせて戦っています。しかし、継潤は有名な力持ちの武芸者で、じりじりと兵庫頭を南へ押しつけていきます。兵庫頭は「ああ、俺もここで継潤に討たれるか」と思ったその時です。「ズドーン」と一発の銃声がしました。はっとしてよく見ると、今まさに自分に向かって大刀をふり上げた継潤が、どしんと馬から落ちています。左のももからは真赤な血がふき出ていました。

 そこへ、鉄砲を片手にした一人の武士、富岡藤太郎が、継潤の首を取ろうと駈けよってきました。藤太郎は、国友の鉄砲の名人でした。人々は鉄砲の力を知らないで、武士の数にもしていませんでしたが、藤太郎は「ここらで新しい武器の威力を見せてやろう」と火縄に火をつけて獲物をねらっていたのでした。この時銃声で、大将の一大事を知った継潤の部下がどっと助けに来たので、継潤の首は取れませんでしたが、宮部勢は一目散に退却して行きました。 このことを伝え聞いた信長は、1丁の鉄砲が300人の兵士にも優る威力を持っていることを知り、早速500丁の鉄砲を国友に注文しました。そして、その鉄砲の威力によって、天下統一の望みをはたしました。 

 その後国友は、秀吉、三成、そして徳川幕府の保護を受け、永く鉄砲鍛冶の村として栄えました。

江戸期は『天領 国友村』

 大坂堺と並んで鉄砲の産地として有名な国友村は優れた鍛冶技術や刀剣技術を持っていた。その村に種子島に漂着したポルトガル船から譲られた鉄砲が種子島時堯→島津貴久→足利義晴→足利義輝→細川晴元→京極氏の手を経てもたらされた。鉄砲に欠かせない火薬も薬品のエキスパートの伊賀忍者や甲賀忍者の手によって簡単に製造できた。

信長も国友の鉄砲製造技術を高く評価していて天分18年7月19日に六匁玉筒5百丁、元亀2年1月17日大筒(に百匁玉筒)を2丁注文している。

  1549年には織田信長が、500挺もの国友村鉄砲を発注したという記録があるが、姉川の戦い(1570)を機に村を所領とした信長は、羽柴秀吉に命じ、この地の鉄砲業の発展をなし遂げさせた。

 江戸幕府のもとでは、村は徳川家康の掌中にはいるが、慶長12年(1607)前述の4名は鉄砲代官に任命されることとなる。このあたりから産業は隆盛を極め、大坂夏の陣の時点では国友村は鉄砲鍛冶が73軒、鉄匠が500人だったと記録されるが、太平の世の中になると需要は激減した。

江戸時代には幕府と密接に連携して一定量の発注を受けて生産したが、それのみで生計が成り立つ数量には満たなかったようである。工人らは交代で江戸に詰め、江戸城での銃器メンテナンスも行った。各地の領主の招聘に応じその地に逗留・移住する銃工も多く、それら銃工の作品には「国友」銘のほか本名で鐫られたものも多い。国友出身でない銃工が国友で修行して「国友」を名乗る例や、商品価値を高めるための「国友」銘もあるといわれる。並び称せられた堺の銃が豪華な装飾金具や象嵌を施した「見た目の付加価値」であるのに対し、国友の製品は「機能美的」に洗練された秀作が多い。日本の古式銃の約4分の1は国友銘と云われ、堺と人気を二分していた。

 

国友 一貫斎(くにとも いっかんさい、九代目国友 藤兵衛(- とうべえ)

 安永7年10月3日(1778年11月21日) - 天保11年12月3日(1840年12月26日))は鉄砲鍛冶師、発明家。幼名は藤一。号は一貫斎、眠龍。諱は重恭。能当(旧字では能當)と銘を切る。日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作。その自作の望遠鏡を用いて天体観測を行った。

近江国国友村(滋賀県長浜市国友町)の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた。9歳で父に代わって藤兵衛と名乗り、17歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継いだ。

文化8年(1811年)、彦根藩の御用掛となり二百目玉筒を受注することとなったが、国友村の年寄4家は自分たちを差し置いてのこの扱いに異議を申し立て長い抗争に発展した(彦根事件)。しかし一貫斎の高い技術力が認められ、文政元年(1818年)に年寄側の敗訴となった。

文政2年(1819年)、オランダから伝わった風砲(玩具の空気銃)を元に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作。その解説書として「気砲記」を著し、後には20連発の早打気砲を完成させた。

文政年間、江戸で反射望遠鏡を見る機会があり、天保3年(1832)頃から反射式であるグレゴリー式望遠鏡を製作し始めた。当時の日本で作られていた屈折望遠鏡よりも優れた性能の望遠鏡であり、口径60mmで60倍の倍率の望遠鏡であった。後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人のために大名家等に売却されたと言われ、現在は上田市立博物館(天保5年作、重要文化財)、彦根城博物館に残されている。

その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家である。

また、彼は自作の望遠鏡で天保6年(1835)に太陽黒点観測を当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある。天保11年(1840)、国友村にて死去。享年63。

参考資料:滋賀県城郭分布調査、信長公記、淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

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