~日本の近代治水事業のシンボルともいえる存在~
琵琶湖には一級河川だけで118本、支川も含めると400以上もの河川が流入している。その一方、琵琶湖から流れ出る川は唯一瀬田川のみ。たった1本しかない流出河川であるにもかかわらず、瀬田川の川底には琵琶湖から流れ出る土砂に加え、瀬田川に合流する大戸川が運ぶ砂礫が溜まり、川の疎通能力が極端に低かったという。上古の時代より、平城京や寺院造営のための木材切り出しなどで禿山になっていた田上山(たなかみやま)からは、大量の土砂が大戸川に流れ出し、「水七合に砂三合」などと例えられていたほどだった。
瀬田川の水はけの悪さゆえ、雪解けや台風の季節には琵琶湖の水位が上昇し、沿岸が浸水被害に見舞われることがたびたびあった。有史以前より水害に苦しめられていた琵琶湖周辺の人々の懸案は、瀬田川の川底を浚渫し、流出水量の拡大を目指すことにあった。
奈良時代、全国各地を遊行しながら民衆救済事業に尽力した行基は、瀬田川の「川ざらえ」(浚渫)を初めて指揮。その際、瀬田川に張り出し、川幅を狭くしていた大日山の開削によって川の流量を増やそうと試みたが、下流の氾濫を恐れて断念した。その後の記録は定かではないが、江戸時代には5回ほど大規模な「川ざらえ」が行われている。なかでも、天明年間(1781~1788年)から天保年間(1830~1843年)にかけて、親子3代にわたって瀬田川の浚渫に尽力した藤本太郎兵衛という庄屋のことは知る人ぞ知る話だ。
瀬田川西岸
琵琶湖から唯一流れ出る河川、瀬田川。琵琶湖から流れ出て大阪湾に至るまでの間に、宇治川、淀川と名前を変えて流れ下るこの川は、古くから東西交通の要衝でもあり、京都、大阪の利水と水運を担う、いわば「近畿地方のライフライン」のような存在だった。
一方、その水はけの悪さから、大雨が降ると行き場を失った水が琵琶湖に滞留し、湖水面の上昇で沿岸が浸水するなど、近江の国の人々は「水込み」と呼ばれる浸水被害に悩まされていた。琵琶湖沿岸の「水込み」被害をなくすことは、人々にとって昔から変わらぬ切実な願いであったと同時に叶わぬ夢のような話でもあった。
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