連続講座「近江の城郭」第3回 元亀争乱~物生山(むしやま)城
最初の堀切・土橋
元亀元年(1570)の浅井長政の裏切りにはじまる織田信長と近江諸勢力との戦いは、その元号をとって元亀争乱と呼ばれています。元亀争乱の戦いは、近江各所で行われますが、湖北での戦いの焦点となったのが佐和山城です。佐和山城は、東山道を眼下に望む場所に位置し、美濃と近江との交通の要衝でした。信長は浅井氏配下の磯野員昌が守る佐和山城を攻撃するために、周囲に付城を築き、佐和山城を包囲しました。物生山城はそうした付城のひとつです。
お城のデータ
所在地:彦根市宮田町 map:http://yahoo.jp/513Nv6
築城期:室町期
築城者:小野清介
築陣期:織豊期
築陣者:市橋長利
砦 主:市橋長利
標 高:192m 比高差:100m
区 分:山城
遺 構:曲輪、土塁、土橋、堀切、竪堀
城 域:100m×20m
目標地:フジテックエレベーター試験棟・宮田橋
駐車場:路上駐車
訪城日:2016.1.11
お城の概要
物生山城は、佐和山から北に伸びる尾根筋の北端に位置する標高192mの物生山の山頂に築かれました。彦根市宮田町の物生山の西背後の山上に築かれている山頂部の主郭を中心に三方に伸びる尾根上に郭が広がり、堀切や竪堀によって防御を固めています。今もこうした遺構は現地に良好に残されています。
頂部に主郭を置き、ここから三方に伸びる尾根筋にそれぞれ数段の曲輪を配した縄張りとなっている。 特に北東先端部にある磯崎城へと繋がる尾根には、五段の曲輪が並び、曲輪との間に堀切が3ヶ箇所、そして土橋の遺構が良く残っている。
主郭から関電の鉄塔にに至る尾根筋にも主郭から少し下ったところから尾根筋に曲輪があり、土塁と虎口の遺構が残っていた。
最高部の曲輪から東尾根に4段の曲輪、西尾根には3段の曲輪が連郭式に配置され、東尾根は切岸主体の防御で、西尾根は傾斜が緩やかなこともあって、曲輪間は横堀で処理されている。
主郭は、多角形状の台状地で、東と西で1.8m程の段差があり西が低く、南と北側の下方には犬走りを伴っている。主郭の西方が尾根続きとなり、3条の堀切を設け厳重に防備を固めている。内堀切と中堀切の間に10m×7mの方形状の腰郭があり、その南部は塹壕状になっている。主郭の南東少し下方には腰郭があり、そこから急激に20m程降った尾根上に微かな土塁痕の残る50m×10mの細長い郭が延びている。主郭から北に降る尾根上には、5段にわたって削平され、最下段は4.5m幅で帯状となっており、その北西端に設けたれた堀切には2本の土橋があり、土橋の間が小さな貯水池のようになっている。
現在に残る遺構からは、佐和山城側に土塁や塹壕、堀切などの施設が構えられており、信長公記に云う「北の山」の可能性が高いように思われる。
今回か佐和山城への「かもうの切り通し往還」から、西尾根を弁天山(211m)・物生山・物生山城・宮田へ下城した。
登城口へ宮田町を流れる小野川(佐和山城 外堀)に掛かる宮田橋前から入ると墓の前を過ぎたところで、左手に曲がるのがポイント。右へ行くと急斜面を登ることになる。
歴 史
物生山城に関して伝承や記録は無く不明であるが、その存在については、・地元領主が築城 ・佐和山城の出城として築城 ・織田信長の佐和山城攻め時の陣城 等と考えられている。
佐和山城の磯野員昌
永禄6年から浅井氏の六角氏に対する前線基地である佐和山城を守っていた磯野員昌は忠実に浅井家に仕えた。織田軍に包囲された時、この付近の有力国人の今井氏、島氏、河口氏も城内にいて員昌と七か条の定書を交わして、一致団結してこの難局を乗り切ろうと誓い合った。
しかし8ヶ月も織田軍に包囲されては城の食料も矢玉も底を尽きかけ、ついに員昌は長政に援軍の要請をした。しかし長政単独では救援に向かえる余裕はなかった。員昌はそれでは佐和山城を捨て小谷城へ入りたいと申し出た。しかし長政はこれを認めるどころか員昌に謀反の恐れありと人質だった員昌の母親を磔にして殺してしまった。もはや員昌の心は浅井家から離れた。隠居も考えた。
このとき信長はその剛勇を惜しみ織田家のために働いて欲しいと員昌を誘った。一旦は固辞した員昌だったがかつて家臣が誤って射殺したため親代わりに養育している国人今井高清の子供達の将来を考え、この申し出を受け入れた。
信長公記には佐和山城に対する付城について以下の記述がある。
---------------------------- 【信長公記】 (巻三 元亀元年8、姉川 あね川合戦の事 )
・・・・「信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは7月1日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。。七月六日、御馬廻ばかり召列れられ御上洛。」
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市橋九郎右衛門長利が守備をした。
上記、記述の「北の山」が、この物生山ではなかったかとも考えられている。
信長の佐和山城包囲網
今回の講座では、講座資料(A4 8頁程度)を無料で。
講義「戦国近江の終焉」 講師 松下 浩氏(滋賀県教育委員会文化財保護課)
物生山城跡を文化財専門職員の案内で御覧いただき、信長の佐和山城攻撃の跡をたどります。
現地見学ルート
ビューポイント・・・西の山彦根山(彦根城・琵琶湖)
弁天山も出郭址の様相
北西下に「堀切」「竪堀」が発掘調査で発見された現場
昨年松原内湖遺跡の発掘調査現地説明会 彦根市の松原内湖遺跡の発掘では、織田信長が一五七〇年、佐和山城攻めの際、敵の逃走や侵入を防ぐため尾根を削った「堀切」「竪堀(たてぼり)」などの城郭遺構が見つかった。
これは、浅井長政の猛将、磯野員昌(かずまさ)の籠る佐和山城を包囲するため構築したもの。尾根を分断する堀切跡は、佐和山城跡から北北西約一・六キロの尾根に築かれ、東西十三・五メートル、南北の七~九メートル、最深三メートルだった。また、斜面に沿って縦方向に掘削した竪堀は、幅七・五メートル、深さ三メートル、長さ十四メートルを確認した。
発掘に当たった県文化財保護協会は、攻め手の被害が大きいとされる城攻めにおいて、土塁による頑強な包囲網を築造し、味方の消耗を防いだ戦い方をしたとみている。
尾根の鉄塔に北に最初の堀切・土橋
主郭へ
北の堀切
北の郭から主郭を見上げる
主郭で説明会(総勢70余人)話もめません!
主郭の東下の郭
縄張り図にある、東端の郭と土塁
中腹の鉄塔から、物生山・尾根鉄塔
宮田の登城口
最後の現地説明!
山屋敷見学
山屋敷から、物生山城(遠望)
日時 平成28年1月11日(月・祝) 10:30~16:30
現地見学:佐和山城下町跡・かもう坂通り往還・切通・弁天山・物生山城・宮田・山屋敷・・・彦根市鳥居本町駅
行程 鳥居本公民館(講義・昼食)→佐和山城下町跡→物生山城跡→近江鉄道鳥居本駅 全行程約4km ※急峻な山登り、山道の長距離移動あり
主催:滋賀県教育委員会 協力:彦根市教育委員会
現地探訪 彦根市教育委員会文化財課専門職員
定員 60名(定員以上の参加者、今回は女性が多い!)
参加費 無料
本日の歩行距離9.8km 歩数 13,121歩
参考資料:連続講座「近江の城郭」第3回 元亀争乱~物生山(むしやま)城 レジュメ、信長公記、彦根市「わたしの町の戦国」・「佐和山攻め城、物生山城を歩く」
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!