城郭探訪

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新善光寺館 近江国(栗東)

2016年03月18日 | 城郭寺院

 お城のデータ

所在地:栗東市林(旧:栗太郡栗東町林) map:http://yahoo.jp/BmJ3VO

区 分:城郭寺院

現 状:寺院

標 高:210m 比高差:40m

遺構等:寺院、堀・庭園

築城期:鎌倉期

築城者:平宗定(高野左衛門尉宗定)

目標値:栗東市林の新善光寺

駐車場:新善光寺駐車

訪城日:2016.3.17

 

歴史…開基(鎌倉時代中期)

開基については、鎌倉時代の中期、平清盛の9長子小松内府重盛の末裔小松左衛門尉宗定が信濃の善光寺に参詣すること48回におよび、ついに霊夢で託宣を受けて、分身の阿弥陀如来の持ち帰り(造像したとも言われています)、建長5年(1253)、この地に一宇を建立して安置したのが始まりと言われています。

平家の落武者伝承

 一説には、小松宗定は平重盛の末裔で、名前を平宗定といい、当地に落ち延びた宗定は、高野左衛門尉と称し、平家一門追善のために開いたとも言われています。 また、新善光寺は、金勝寺別院の一つだったとされる多福寺が前身であったのではないかと推測されています。

 栗東には、その他にも平家の落武者伝承は残っていて、金勝寺で仏門に入り、修行を積んで山麓に御堂を建て、農業をしながら平家一門の菩提を弔ったという三因寺(栗東市井上)や出家して金勝寺で修行し、金勝山にある国見岩より故郷を偲んだとされる伝承などが残っています。

建長5年(1253) 平清盛の長子小松内府重盛の末裔小松左衛門尉宗定

 鎌倉中期、平家一門の菩提を弔うために、信濃の善光寺へ四十八度の参詣をして、願を成就して善光寺如来の分身を安置したことに始まる。

新善光寺略縁起 開山上人
 源平の乱(治承の内乱)の後、平清盛の長子、小松内府重盛の一族で、小松左衛門慰尉宗定という人が、この地にのがれ住み、当地の地名を取って、高野宗定と称された。宗定公は、平家一門の菩提をとむらうため、信濃善光寺へ48度の参詣を発願された。

夢定中の霊告(ゆめのおつげ)
 その後、宗定公は12年を経て、この願を成就されたが、その満願の未明の頃、信濃善光寺如来より、夢の中でおつげを賜り、「江州(滋賀県)一円の衆生済度(しゅじょうさいど)のため、我、(善光寺如来の御分身)を連れ帰れ」という霊告を得られた。宗定公はこの霊告(おつげ)を深く慶び、夢より覚めると御分身如来が、宗定公の眼前におたちになっていた。

御分身如来の請来
宗定公は深くよろこび御分身如来を頂き、現在のこの地に請来された。時に建長5年(1253年・鎌倉中期)1月13日のことである。宗定公の御影は、50年に一度の御開帳の秘仏として、御奉安している。

本田俊次候(ほんだとしつぐこう)
寛文元年(1661年)になると、膳所城主本多俊次候は、あらたかな善光寺如来に深く帰依(きえ)され、三間四面の本堂を寄進され、略縁起(りゃくえんぎ)を著され、奉納された。 その後、県下一円に当寺の名が広まり、多くの信者が集まる所となり、地方屈指の名刹となった。中でも、1月13日御判日(ごはんび)、春秋のおひがん、8月のおせがきは、多くの参詣者がおまいりされた。

有栖川宮家御帰依(ありすがわのみや ごきえ)
明治元年、有栖川宮殿下の三回忌に当たり、宮家より追善のため御尊牌(おいはい)が奉安された。この際、宮家から御幕と提灯(ちょうちん)の寄進と、各種証文を賜った。                     

枯山水庭園

 膳所藩主本多俊次が本堂を再建した時、回廊(西側)と庫裡(南側)に囲まれた枯山水庭園を一緒に作りました。

 庭の北側から東側にかけては、高さ1.6メートルほどの築山となっています。さらに北側には第二次世界大戦まで百畳敷きの客殿があったといわれ、この築山が本殿と客殿の境界の役目をしていたと思われます。

 また、近江富士として知られている三上山や菩提寺山などを借景した庭には、中央に大きな亀島を設けることで、その護岸には亀の手脚を表現する横石手法が見られ、巨大な亀が北上する動きが表現されています。

 参考資料:栗東市観光協会の新善光寺HP、史跡ウォーカー、栗東市地域資源活用ビジョン資料

  本日の訪問ありがとうございす!!


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