城郭探訪

yamaziro

音羽城(日野城/智閉城/智関城) 近江国(日野)

2012年08月01日 | 戦国山城

骨肉の争いを秘める─音羽城

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町音羽

別 称:日野城/智閉城/智関城
現 状:公園・山林:
区 分:山城  
標 高:280m 比高差:30m
遺 構:土塁・堀・説明板
築城期:室町期
築城者:蒲生貞秀
⑩最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
訪城日:2013.7.6

お城の概要

 音羽城は、北に、東西が谷となった半島状の丘陵先端部を利用して築かれた城だ。 現在、本丸・二の丸・南の丸を合わせた広々とした芝生の公園の公園となっている。
 城の遺構は、空堀が公園の北・東・南に良く残り、特に南から東にかけての空堀は見応えがある。 公園内南丸と南帯曲輪との間に低いが土塁があり、北側の虎口付近にも土塁がある。
 丘陵の北東先端部に北出丸がある。 ここにも土塁・空堀・虎口の遺構が良好な状態で残っていた。

城跡を歩くと大手門の石垣跡、壮大な堀切、いまも水が涌く井戸跡などが残り、過ぎ去りし往時における音羽城の堅固さを彷彿とさせてくれる。

お城の歴史

音羽城は、応仁の乱当時、蒲生貞秀が築いた山城。 蒲生氏は、日野谷を領した豪族で近江守護佐々木(六角)氏に仕えた。 音羽城は、明応五年(1496)、文亀三年(1503)に激しい合戦の舞台となった、守護六角高頼を助けての戦いの舞台となった。その後、大永2年に蒲生秀紀と高郷との間に相続争いが起き、叔父蒲生高郷に攻められた蒲生秀紀は、3年に渡る籠城戦の末に、守護六角高頼の裁定により降伏し和議が成立した。  この和議により、音羽城は廃城となり蒲生秀紀は鎌掛城へと移り、蒲生宗家を継承した高郷・定秀は、その後居城を日野中野城へと移した。いずれも蒲生氏の勝利となったが、大永二年(1522)に起こった一族の内訌により落城、音羽城は廃城となった。

伊庭出羽守貞隆は援軍細川政元の家臣赤沢朝経と共に音羽城を包囲したが、落とすことができず敗走した。
この籠城戦での糧水が乏しいのを体験した蒲生貞秀は、翌年中野に城を築き、ここ中野城を居城とし、音羽城を属城とした。

 貞秀は老後家督を長子秀行に譲ったが、秀行は父に先立ち死去した。秀紀はまだ幼かったために秀行の弟、高郷は秀紀に代わって宗家を継ごうとしたが貞秀はこれを許さなかった。貞秀の死後、高郷は所領配分の少ないのを不服として大永2年(1522)六角定頼の援けを得て秀紀の音羽城を攻めた。籠城8ヶ月に及んだ後、秀紀は降伏し、定頼の調停で両家分立とした。この時に音羽城は破却され、秀紀は鎌掛城を、高郷は中野城を居城とした。                          

秀紀も母、妻も城内の井戸に身を投じ、蒲生家嫡流は滅ぶ。


 
音羽城は応仁の乱当時、蒲生貞秀が築いた山城である。                                                    前面には日野川を配し、背後には宝殿ヶ岳を控える要害堅固な城で、明応五年(1496)、文亀三年(1503)に激しい合戦の舞台となった。                                                                                         いずれも蒲生氏の勝利となったが、大永二年(1522)に起こった一族の内訌により落城、音羽城は廃城となった。                                      城跡を歩くと大手門の石垣跡、壮大な堀切、いまも水が涌く井戸跡などが残り、音羽城の堅固さを彷彿とさせてくれる

・城址石碑と土塁址

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、、パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明

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