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城郭探訪

yamaziro

絹川(衣川)陣所(天満宮の遺構) 近江国(大津)

2018年04月28日 | 陣所

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、橋、屋外、自然

お城のデータ

別 称:天神社の遺構

所在地:大津市衣川3丁目 map:https://yahoo.jp/t_zBtZ

現 状:神社・山林

区 分:丘陵/陣城

築城期:織豊期

築城者:浅井・朝倉軍

遺 構:平削地・土塁・櫓台・

目標地:衣川天満宮

駐車場:天満宮の路上駐車

訪城日2017.4.16、2018.4.26

お城の概要

堅田駅から徒歩約1.3km、明神橋近くに衣川天満宮があり、明神橋を渡るとき、参道脇は桜が咲いてました。今は衣川天満宮で、背後に丘陵があり、天満宮の駐車場を利用この日は、祭礼であった(普段は見ることが出来ない神輿も)。

 春日山から南東に舌状に伸びる、衣川天満宮の丘陵に、城郭遺構が残る。詳細不明であるが、築城期は志賀の陣の絹川陣所である。

お城の歴史

『來迎寺要書』一  真雄和尚

元亀元年坂本合戦時、当寺什物悉ク手・・・・

 一、九月十八日、浅井備前守長政、朝倉左衛門義景、其勢二万八千余騎ニテ、江州志賀郡江打出、小塚山ヲ為本陣、苗鹿、雄琴、乳野、仰木、飯室、絹川(衣川)、堅田辺迄取陣也、此時宇佐山之取出森三左衛門可成五百余騎ニテ志賀表ニ人数ヲ伏置、・・・・云々。

志賀の陣の浅井・朝倉軍の陣所。

訪城日:2018.4.26

天満宮の由緒https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1044819262347315

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/944526269043282画像に含まれている可能性があるもの:空、植物、木、橋、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、橋、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、橋、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、靴、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、橋、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、バイク、木、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、雲、植物、屋外、自然

 参考資料:『滋賀県中世城郭分布報告』『來迎寺要書』

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田部城 近江国(長浜市木之本町田部)

2018年04月28日 | 居館

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お城のデータ

所在地:長浜市木之本町田部  map:https://yahoo.jp/_K2sHI

現 状:寺社地、宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:田部氏

遺 構:田部家墓

標 高:145m  高差:-

駐車場:西光寺前駐車場スペース

目標地:西光寺

訪城日:2016.6.4、2018.7.21

お城の概要

木之本町田部集落の西光寺の門前の宅地が。「遺跡ウォーカー」の比定地である。

遺構は破壊されているが、田部集落の墓地には立派な「田部家」がある。https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1042126439283264&set=pcb.1042126992616542&type=3&theater

お城の歴史

当初は浅井氏の家臣の田部氏の居館(城)

元亀争乱の際には朝倉氏が駐屯し、その後は、丁野の中島宗左衛門も在城しました。

『江州佐々木南北諸氏帳』には「田部山城主 住 佐々木随兵 田部民部少輔信頼 元勢州田部義士後弾正正義氏男」とある。

信長公記』 巻六 元亀四年

11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山方面に布陣しなければならなかった。

 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。

 参考資料:信長公記、江州佐々木南北諸氏帳

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