城郭探訪

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宇尾城(大宇城) 近江国(彦根)

2016年03月01日 | 居館

梅林の木陰に石碑が建つ

お城のデータ

所在地:彦根市宇尾町 map:http://yahoo.jp/hJAfGM

別 名:大宇城

現 状:果樹園・宅地・白山神社

遺 構:石碑・池跡

区 分:居館(平城)

築城期:室町期

築城者:大宇(河瀬)大和守高秀

城 主:大宇(河瀬)大和守高秀、大宇秀則

目標地:白山神社・公民館

駐車場: 白山神社前に路上駐車

訪城日:2014.8.12・2016.2.28

お城の概要

宇尾城は、集落内に鎮座する白山神社を含む、宇尾町北側一帯に所在したとされる。宇尾の地はかつて「大宇」とも呼ばれ、別名を大宇城と称される。

宇尾の現集落北端には、当地の産土神である 白山神社がありますが、この宮地を含む北側一帯に大宇氏の平地城館が存在したと伝えいます。

明治時代初期に描れ「尾邑耕地絵図」を見ると、街道や水路に囲まれた区画を確認することができます。

北端には「ハンゾの池」通称さ城館当時の池が描かれており、現在も 館当時の池が描かれており、現在も 館当時の池が描かれており、現在も窪地となっており窪地の周辺は果樹園が営れ、梅林となって残います。

 梅林中に「河瀬大和守秀則屋敷址」と記された石碑が往時の姿を伝えています。現在の城域は一部宅地となっているが、大半は果樹園であり、その北端には城館当時からあったとされる「ハンゾの池」が窪地となって残っている。

 また果樹園の東方、梅林の中には「河瀬大和守秀則屋敷址」と記された石碑が建てられていた。

宇尾町は、かつて「大宇」とも呼ばれ河瀬一族である大和守高秀と秀則2代が居城した所です。  高秀は、一時期隣村の甘呂に居住していたようですが、後当地城館を移大宇と名乗り改と言います。

 

白山神社

果樹園へ

歴  史

宇尾城は、大宇大和守高秀と秀則2代の居城である。大宇氏は荘官から武士化した河瀬城主河瀬氏から派生した一族であり、河瀬氏・蓮台寺氏と共に「犬上衆」と呼ばれていた。

河瀬氏から分派した河瀬大和守一族は、最初甘呂城に居たが、高秀の時にこの地に居城を移し、大宇氏を名乗ったとされている。

 江戸時代の地誌である『淡海木間攫』には、河瀬氏・蓮台寺・大宇の3家が「犬上衆」と呼ばれ、2代秀則は、浅井氏に従って姉川合戦で活躍したこと織田信長による小谷城総攻撃では浅井氏一族ともに討死したことなどが記されています。

■ 大宇氏と尾城 ■・・・わたしの町の戦国
宇 尾町は、かつて「大宇」とも呼ばれ河瀬一族である大宇大和守高秀と秀則2代が居城した所です。 

 高秀は、一時期、隣村の甘呂に居住していたようですが、後に当地城館を移いて大宇と名乗り改めたと言います。
宇尾の現集落北端には、当地宇尾の当地産土神である 白山神社がありますが、 この宮地を含む北側一帯に、大宇氏の平地城館が存在したと伝えいます。明治時代初期に描れ「宇尾邑耕地絵図」を見ると、街道や水路で囲まれた区画を確認すこがきます。北端には「ハンゾの池」通称さ区画を確認すこがき。北端には「ハンゾの池」通称さ城館当時の池が描かれており、現在も窪地のとなって残っています。窪地周辺は果樹園が営れ、梅林中に「河瀬大和守秀則屋敷址」と記された石碑が往時の姿を伝えています。

江戸時代の地誌である『淡海木間攫』には、河瀬氏・蓮台寺・大宇の3家が「犬上衆」と呼ば 浅井氏に従って姉川合戦で活躍したこと織田信長に よる小谷城総攻撃では浅井氏一族ともに討死したことなど が 記されています。 (彦根市教育委員会 文化財部文化財課)

 参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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油日館 近江国(甲賀・甲賀)

2016年02月20日 | 居館

神社参道右手にある『油日館』石碑の裏(南側)に築かれていました。

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町油日字金剛寺 (旧甲賀郡甲賀町油日字金剛寺)    map:http://yahoo.jp/1zNWfN

現 状:竹林

遺 構:土塁、堀

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:上野氏

城 主:上野氏

目標地:油日会館、善徳寺

駐車場:油日神社参拝者用の無料駐車場

訪城日:2016.2.14

油日館

お城の概要

油日館は、甲賀郡総社油日神社の境内西側、神社の参拝者用駐車場から神社へと向かう参道右手に油日館の立派な石碑が建てられている。 この石碑の南側一帯に油日館が築かれていた。 県道の坂道脇から竹藪の中を見ると、館の土塁が一部残存しているのが確認することができる。

館は油日神社の前の道と県道131号線の交差点にある。

竹薮の中には土塁が残り、北側に堀跡と思われる窪地が土塁に沿って残っている。この土塁は北端のようで西端はL字に南側へ曲っているが若干残っているのみで大半は削られているようだ。

油日館は、油日神社の西側に位置し土塁囲みの曲Ⅰ・Ⅱで構成される複郭構造です。

歴 史

 油日館は、築城年代や築城者は定かでない。 油日城共々上野氏が城主であったと考えられている。

館は下屋敷、近くの丘陵にある油日城は詰め城、上野氏の館・城です。

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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大田館(赤田氏草野田館) 近江国(浅井・太田)

2016年02月16日 | 居館

 

お城のデータ

所在地 長浜市(東浅井郡浅井町)太田町 map: http://yahoo.jp/4E8NaA 

別 称:赤田氏草野谷館(所有者:個人)

区 分:居館

築城者:江戸初期

築城者:赤田氏

遺 構:櫓台、土塁、切岸、横矢掛かり

目標地:大田バス停

駐車場:路上駐車(空地)

訪城日:2016.2.11

お城の概要

 旧浅井町の東部に位置し、草野川西岸に営まれた集落で、背後には急峻な山地が迫っている。その山地から張出した微高傾斜地を整形し、住居が建ち並び、通路や切岸などで三区に区分されている
光信寺敷地や中段は切岸が発達し、下段の外縁は堀跡と思われる水路が囲繞している。下段の東面中央には両横矢のように西へ半月状に入り込んでいる。中段の北西隅には山地から南東方向に舌状高台が張出し、上部は三段に削平され、最上段の東側には山地から坂土塁が伸び、その外側は急斜面となる。この高台は櫓台で、中段が主郭、下段が外郭の砦と見ることができ、ほぼ集落と重なり「里城」のようである。
地籍図によると、高台に「西屋敷」、中段中央部に南屋敷、中段東側の一画に「中屋敷」の地名が残る。

お城の歴史

 赤田氏の家伝や近江の地誌類から、赤田家はもともと犬上郡曽我村(現在の多賀町木曽)の土豪で、戦国中期に犬上郡八町(現在の豊郷町八町)に移ったと考えられています。

『嶋記録』や『山中文書』によれば、赤田氏は戦国大名浅井氏の家臣として、永禄九年(1566)の六角氏との合戦で活躍しました。

 その時代の当主は信濃守「興」でしたが永禄十一年(1568)に戦死し、その子信濃守「賢」は姉川合戦で活躍しています。浅井氏滅亡後、「賢」の次男に当たる勘兵衛は、八島にあった赤田氏「出張り屋敷」(小谷城下の屋敷)から、領地があった草野田村(現在の太田町)へ移住しましたが、この家系が赤田氏庭園の所在する草野赤田氏の始祖と言われています。

 庭園は西から東へと緩く傾斜する地形に随って造形され、中央に広く池を穿ち、池の西と南に築山を配しています。築山は、西側は切土による法面を利用して山並みをうねらせ、南側は盛土で築き東西の隅をとくに高くしています。家屋側から見た池は、手前が広く左奧に深く続くが、中程右手側に岬状の突出部を設け、その右奧に入江状の部分を設けるなど、構成に工夫を凝らしています。全体に石組を主体とする池泉で、池中には中島と浮石を配し、庭の南西隅より引かれた水が池右奧に滝となって落ちています。現在は庭に落とす水はこの一箇所だけですが、池の北西隅にも導水路があり、以前はここからも水を注いでいたと言われています。池の水は東南隅の築山と石垣の下を潜る水路から表門側の水路へと排水していますが、この葦葺の表門が庭園に趣を添えています。そして、池に対する母屋前には、露石敷を配し右手には手水鉢を設けています。

 庭園の奧に向かって次第に広がる空間構成や、敷地が奧側で狭小な印象となることを回避し、庭園としての広がりを意識させる工夫を見ることができます。

 作庭時期及び作庭者は不明ですが(小堀遠州が若い頃作庭を学んだと)、江戸初期に赤田氏が社会的に地位が高く、経済的にも裕であったこと、また、江戸初期の庭園の特徴である石組を主体とする構成で、要所に立石を配し、全体のバランスも程良く造作されていることなどから、江戸時代前期の作庭と考えられています。
 名勝庭園の多くが寺院の庭であるのに対し、在家の庭として大変貴重です。 

 表門(南側から望む)※表門の左に見える林が庭園

庭園(家屋側(北側)から望む)※庭園の左奥に表門がある。

中段の東面切岸 

赤田氏 草野谷館

下段の南部に所在する草野谷館(犬上郡八町城主赤田氏の浅井領出張屋敷)永禄~天正年間の門

MAP

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、(『広報ながはま』平成27年2月1日号より

 本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


西村館 近江国(浅井)

2016年02月15日 | 居館

西村館の門

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町西村町 map

現 状:屋敷跡残存

区 分:居館

築城期:

築城者:

遺 構:屋敷門・曲廓・土塁・石碑

目標地:天満宮・西村バス停

駐車場:天満宮

訪城日:2016.2.11

 

お城の概要

草野川西岸に営まれた集落で、背後には急峻な山が控えている。

山麓に西光寺

 集落内は三段に削平して住居が建ち並び、このうち天満宮・公会堂。現西村家を含む一帯が本郭であったと思われる。

 特に現西村家は門のみ屋敷地の東側は約1,5mを測る比高差をもって落ち込み、その下に水路で遮断している。また、南には幅約1,5m、高さ約1mを測る土塁が設けられている。

西村哲男翁之碑居館の南東隅部

 

 一方、天満宮、公会堂の位置する地区も。傾高地の張り出し部と思われるが、東側は、約2mの落ち込みを見せている。

 集落の北側は河川で遮断された防禦の構えをみせており、堀跡に間違いないであろう。

背後の山尾根には一部切り岸が伴う削平地や土橋状地形が存在するが、西村集落の砦の可能性もある。

天満宮の境内に西村公会堂

 

お城の歴史

中世の城館遺跡であるが、詳細は不明である。

伊香荘(古代〜中世)西村哲尾氏所蔵文書) 

 平安期から見える荘園名伊香【いかご】郡のうち余呉【よごの】荘の南、富永荘の北に位置する現在の伊香【いか】郡木之本【きのもと】町西山・大音【おおと】・黒田・木之本・千田・古橋・川合・大見・杉野あたりに比定されている延久2年「弘福寺領近江国荘田注進」(平遺1044)によれば大宝年間以前に斉明天皇の勅施入で成立したものとされているこの注進には荘田として18条4里・5里に10町2反236歩とある弘福寺領伊香荘と連続するかどうかは不明であるが、13世紀から14世紀にかけては皇室御領伊香荘が存在し、一方では六条院領として室町院に相伝され、持明院統の伏見院・花園院に伝領され、一方では浄金剛院領として後嵯峨院―大宮院―亀山院―昭訓門院―昭慶門院と相伝され大覚寺統の所領ともなっていたようである(室町院御領目録・昭慶門院御領目録など)一方、暦仁元年「四条天皇宣旨案」、建治2年「後宇多天皇宣旨案」によると天台座主の相伝の所領のなかに「近江国伊香勅旨」なるものが見えている(鎌遺5346・勝尾寺文書)また、正中2年の「承鎮法親王付属状」には五仏院領として「近江国伊香荘,妙臨寺」が記録されている(三千院文書)さらに南北朝期の文和2年近江北郡に散在する梶井宮門跡領が、山内定詮によって違乱をうけたが、この中にも「伊香庄号五位庄 妙臨寺」の名が見える(菅浦文書771)あるいは建長2年「九条道家惣処分状」には「近江国伊香古庄」とある(鎌遺7250)「荘園志料」は伊香荘を「イカゴ」と記し、「伊香古に作る」としているそこでこれらの諸史料を伊香郡伊香荘であるとすると、鎌倉期には皇室御領として存在するとともに、その間に一部は摂関家領、延暦寺領として相伝されることもあったようであるその後康永元年花園院は伝領した室町院遺領を直仁親王に相伝したが、直仁親王は近江国伊香荘内黒田郷・古橋郷・石作郷等を妙心寺に寄進している妙心寺は応永の乱により寺領を没収されたが、黒田郷等は南禅寺領となった文安元年妙心寺は再興し、黒田郷等は返付されたが、このとき黒田郷等をめぐって南禅寺徳雲院末寺竜雲寺と相論を展開している(妙心寺文書)また黒田郷・古橋郷については「伊香荘内」とある場合と、「近江国中荘内」と記されている場合があり(妙心寺文書)、嘉暦4年「公文、実験使等連署状」には「中庄椙野郷」と見え(横山神社文書)、応永5年「足利義満御判御教書案」には「近江国伊香中庄」とある(佐々木文書)これらを勘案すると伊香荘は伊香中荘・中荘ともいったようである15世紀から16世紀には京極氏の支配するところとなり、続いて国人・土豪勢力の拮抗する状態が続き、

やがて浅井氏の支配下に入るに至ったそしてこの頃には「伊香荘」「中荘」なる文言はあまり見られなくなり,地域を示すにはもっぱら「古橋郷」などという「郷」名が多く用いられており,荘園としての歴史は終焉したようである天正元年浅井氏滅亡後は江北一帯は羽柴秀吉の領するところとなったが,天正13年山内一豊が近江長浜に入り,旧伊香荘の地域では大音33石・黒田130石・古橋440石等々を知行した(山内文書/東浅井郡志4)天正18年には石田三成が佐和山城に入り、以後江北を領したが,この地域はその配下に属したようである(高橋末治郎氏所蔵文書・西村哲尾氏所蔵文書)関ケ原合戦後、慶長7年この地域一帯に小堀新介の検地が実施され、近世の徳川氏の支配体制に組み込まれていった慶長7年検地帳は西山・大音・木之本・千田の地に現存している。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

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馬淵城 近江国(近江八幡)

2016年02月15日 | 居館

京都新聞2016.2.14より

お城のデータ

所在地:近江八幡市馬淵 マップ:http://yahoo.jp/0G7nMp

区 分:居館

築城期:鎌倉時代中期

築城者:佐々木広定

遺 構:なし・・・真光寺に墓碑

訪城日:2014.1.2

お城の概要

 馬淵城の詳細は不明であるが、近くを流れる白鳥川を何らかの形で利用していたであろうことは容易に想像される。
 白鳥川に関しては、現在馬淵地区の東を流れているが、これは昭和40年頃の圃場整備に伴って川筋が変えられたもので、当初は馬淵地区の西を流れていた。
 この川筋の名残が現在も馬淵地区を流れる細い水路と考えられ、馬淵城は白鳥川が大きく蛇行し、三方を白鳥川で囲まれた地形に築城されていたと推定される。

 馬淵地区にある真光寺は馬淵氏の菩提寺で、墓地には馬淵一族の墓とされる五輪石塔群がある。
また、馬淵は岩倉山から良石を産出することもあって、馬淵衆や岩倉衆などの石工集団の発祥の地としても知られている。

集落には城屋敷・一ッ堀・蔵の町・籔雨田(流鏑馬田か)の地名という字名が残っていて、城は集落の北東部にあったと推察されているようです。ただ、城を示すような遺構は何も残っていないようで、真光寺に馬淵氏の墓はある。法要のときに子孫が集まるのみだとの事。

歴 史

『日本城郭体系 11』によりますと、「建保六年(1218)に佐々木弘綱が将軍実朝より賞賜された馬淵庄を、その弟広定が受け継いで馬淵氏の祖とし居館をおいた。

永禄・元亀年間(1558-73)の間、佐々木氏の没落後もここにその居を置いていたものと思われ、同町真光寺墓地に左記の銘を有する五輪石塔(市指定物件)があって、そのことを裏付けているのではなかろうか。

真光寺

馬真光寺は馬淵氏の菩提寺で、墓地には馬淵一族の墓とされる五輪石塔群がある。

東に観音寺城

まぶちうじ【馬淵氏】 

中世の武家。近江国蒲生郡馬淵(滋賀県近江八幡市)より起こる。佐々木氏一族。佐々木氏系図によれば定綱の後裔である広定が初めて馬淵氏を称した。

代々近江の守護・戦国大名六角氏の有力家臣で、南北朝時代の初めから室町時代前半にかけては,守護六角氏の守護代として活躍した。とくに広定の曾孫にあたる義綱は、延文・貞治年間(1356‐68)に活躍の跡が顕著であり、六角氏の領国政治を支えた重臣であったことがうかがえる。

 馬淵広定は佐々木定綱の五男で、蒲生郡馬淵庄を領して馬淵を称したのに始まる。この広定の四男基綱が青地右馬助の養子となり、青地氏を継いだという。その時期は鎌倉時代の中ごろと考えられている。青地庄は経済的にも交通的にも重要な位置を占めており、江南地方に勢力の拡張を目指す馬淵氏や、その背後にある佐々木氏にとって青地庄に一族の者を配置することは有効であったために、基綱を青地氏の養子として青地氏を佐々木氏の一族化したものだろう。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、武家家伝、日本城郭体系、淡海の城、京都新聞

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近衛政家邸(大興寺) 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月10日 | 居館

大光寺

山門

歴 史

以前は、現在の南側の谷に所在する大光寺の前身である大興寺があったと云われ、

応仁の乱を避け信楽庄に避難した近衛政家がこの寺に応仁2年(1468)8月19日から10月19日の二ヶ月間にわたり滞在したとの記録が残り

政家の対面の場となった「清故庵」は、城の東、丘陵先端部にある清光寺の位置と伝えられている。

鎌倉時代の公卿・近衛家基は右大臣を経て、1289年関白となり、1291年に関白を辞して信楽荘小川に隠居し1296年この地で亡くなっている。家基の孫がこの地の豪族・多羅尾氏の始祖になる。大光寺には近衛家基の墓があり菩提寺となっている。

大光寺は737年行基によって開創されたと伝わる古刹である。

・寺名:大光寺(だいこうじ) 

・住所:甲賀市信楽町小川1137 map:http://yahoo.jp/VMr-VC
・山号:現聖山

・宗派:真言宗智山派
・開基:行基 

・開創:737年 

・本尊:地蔵菩薩
・境内:市指定史跡

・庭園:小堀遠州作

訪城日:2016.2.8

大興寺遺構

大光寺へ下りた。

多羅尾氏の墓所

近衛家の墓所

本坊

参考資料:滋賀県城郭分布調査、遺跡ウォーカー、大光寺説明板

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青木屋敷 近江国(石部)

2016年02月01日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:滋賀県湖南市(旧甲賀郡石部)石部西一丁目5番23号  map: http://yahoo.jp/sSZQJg

目 標:真明寺(JR石部駅すぐ)

区 分:居館

遺 構:土塁・土壇・堀

築城期:室町期

築城者:青木氏

城 主:青木右衛門佐

目標地:真明寺、石部茶屋、(旧東街道沿い)JR石部駅

駐車場:無し(真明寺墓地駐車場)…http://yahoo.jp/ux4-OJ

訪城日:2016.1.31

歴 史

 真明寺もまた、当地の有力武士青木氏を外護者として、慶長二年(1597)に建立された。山号を青木山という。開基は嶺誉蓮幸、慶安三年(1650)十月に没している。

 当寺の住職俊応が貞享二年(1685)に記した『古過去帳』には「一、真明寺者青木岩崎殿子息青木検校殿之持院也、干時慶長二丁酉年、開基沙門嶺誉蓮幸大徳、一、境内者青木岩崎殿之城跡也、東西二十六間、南北三十二間、歩数合二反七畝二十二歩」と出ている。『甲賀郡志』によれば、『西福寺記録』に慶長二丁酉年建立、大旦那青木検校、青木山真明寺」と出ているという。

 青木岩崎は石部三郷を支配していた青木四家のひとつである。永禄三年(1560)九月一日付の算用状には「青木岩崎左衛門尉」の名が見えている。青木検校の検校とは、彼の場合盲人の官職を指す称ではなく、寺務を監督する職掌としてのそれであり、蓮幸を開基として創設した持庵を旦那として管理していたので青木検校といわれたのであろう。ではその名をなんといったのであろうか

 

 青木氏の邸宅は、享保十九年(1734)に編纂された近江国の地誌である『近江與地志略』には「当寺地ハ青木右衛門佐屋敷跡也」石部町字平野の真明寺境内に位置し、そこは青木右衛門佐の屋敷跡であったと記されている。なお右衛門佐については、織田信長の被官紀伊守一矩の子どもであると記されているものの、その真偽は不明である。青木氏の末裔については、次にあげる『青木八郎右衛門家文書』より、同氏の様相をかいまみることができる。

 右衛門佐について同書の著者寒川辰は清「信長ノ家人紀伊守一矩、初勘七郎ト云、此子成ベシ一矩ハ後越前丸岡ノ城主ト成リ、子ヲ右衛門佐ト云フ、是ナルベシ」と考証している。「宮城家系図」(金沢市宮城青木一氏所伝)には「(越前北ノ庄城主)青木紀伊守重治――(一矩トモ)――(江州石部居住)青木右衛門太夫」と出ており、右衛門太夫とも称したようである。重治(一矩)は秀政とこ名をかえ、慶長五年に没している。

 真明寺の別の所伝では青木秀正の女祐貞が当地に庵を結んでいたといい、その没年は明暦二年(1656)十月と伝えている。また右衛門太夫は善右衛門ともいい、慶長十三年(1607)五月に死去したという。さきの「宮城家系図」によれば、同じく石部に住し、大坂冬の陣で討死した青木兵左衛門はその一族である。

 真明寺を貞享のころ再興したのは四世俊応であるが、この僧は正福寺村(甲西町)の青木庄助の子であるが、正福寺にもまた青木氏がいた。『寛政重修諸家譜』(巻665)には「先祖近江国甲賀郡正福寺の人にして、もとは上山を称す。美作守家がとき、同国青木の庄に住せしより称号とす」とあり、安の項の下に「近江国正福寺の城に住し、佐々木承禎が旗下なり。そのゝち織田右京(信長)に属し、右府生害のゝち青木左京進某に焼討せられ、つゐに所領を奪わる(下略)」と註記されている。

 正福寺の青木氏も佐々木の幕下であった。菩提寺城、丸岡城(甲西町柑子袋)をまもっていたのも青木氏であった。このように青木氏は六角配下の土豪として当地方に勢力をもち、甲賀口を扼していたが、佐久間信盛らの来攻によって、菩提寺の青木氏、石部平野の青木氏も居城を捨て敗走したのである。

 以上のように、天正慶長期にあいついで出現した浄土宗二ケ寺は、ともに織田信長によって佐々木側の敗者・甲賀武士と関係をもっていた。近江における浄土宗は金勝東坂(栗東町)の阿弥陀寺を中心として、その三代住職宗真のとき(15世紀末)より発展するが、宗真は佐々木氏と深い関係をもち、衰退期の同氏が頼りとした甲賀武士の蟠踞地域に教線を伸ばしている。善隆寺、真明寺が浄土宗寺院であるのも、このような動向と決して無関係ではない。

 なお、明清寺以下の寺々については、その記述内容が織豊時代に属しているが、近接した時期であり、寺院関係ということもあって、便宜上本章にまとめた点を特に断っておきたい。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、石部南小学校HP中世の石部 

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山屋敷 近江国(彦根・鳥居本)

2016年01月12日 | 居館

最後の現地説明!

お城のデータ

所在地:彦根市宮田町 map:http://yahoo.jp/Kss6dg

築陣期:室町期

築城者:小野清介

築城者:小野清介

標 高:92m   比高差:ーm

区 分:山麓館

遺 構:堀痕「用水路」

目標地:フジテックエレベーター試験棟・宮田橋

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.1.11

お城の概要

福島城と百々屋敷の中間に位置し、東山街道を監視の役目を担っていたのでは? 

物生(むし)山城を詰め城・物見廓をしての山麓館では?

「城館後には、家は立たない」というが、ここも例外ではないようです!

 歴 史

「淡海温故木間攫」に坂田郡「物生(むし)山村 古小野清介ト云武士当村ノ地頭タリ、其宅地跡□在ス、此後ハ伊賀国ニ有ト云、」

坂田郡域 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。

  • 彦根市の一部(笹尾町、小野町、佐和山町、鳥居本町、宮田町より北東)
  • 長浜市の一部(相撲町、森町、下之郷町、国友町、今町、千草町、東上坂町、相撲庭町以南)
  • 米原市の大部分(甲津原・曲谷・甲賀・吉槻・上板並・下板並を除く)

明治12年(1879)に、小野西山村・小野馬場村・物生(むし)山村が合併して宮田村となる。

山屋敷見学

山屋敷から、物生山城(遠望)

物生山城…遠望(中央の鉄塔の右標高:192m)

物生山城…遠望(右の鉄塔の左 標高:192m)

参考資料:物生山(むしやま)城  近江国(彦根・鳥居本) 現地見学会で、近江温故小間攫

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南桜(みなみさくら)館(木村館)   近江国(野洲)

2016年01月04日 | 居館

野洲市の遺跡より

お城のデータ

所在地:滋賀県野洲市南桜(旧、野洲郡野洲町南桜 map:http://yahoo.jp/856V1n

別 称:木村館
区 分:城館
現 状:宅地
築城期:ーー
築城者:木村氏
訪城日:2015.12.24
お城の概要

南桜集落のあったとされる平城。 同地を領した木村氏の居館。野洲川を見下ろす高台にあり、集落内を巡る水路と基段・城館。

 
聖應寺 
 延暦20年(802)頃、最澄が自作の薬師如来を安置し開基したと伝えられている。
元亀元年(1570)本尊を除くすべての諸堂が消失、寛政10年(1799)日光輪王寺宮殿下の帰依を受け再建、享和2年(1803)兵火により消失、その後再建比叡山三千坊の一寺院として祈願所となる。
 昭和36年名神高速道路建設により立ち退きとなり現在の地へ移築された。しかし一部の石塔・石仏は移築されず名神高速道路に埋設されたままである
 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、野洲市の遺跡、遺跡ウォーカー


宇賀野館 近江国(近江町)

2015年12月17日 | 居館

宇賀野会館の城址碑

戦国時代に京極一族・宇賀野氏の居館。宇賀野氏は京極高雅を始祖に持つ家柄で、宇賀野村(現在の米原市の北部一帯)を支配していました。

 戦国時代には、織田信長によって黒田城を落とされて尾張国から命からがら脱出し、この地に逃げ込んだ幼かった山内一豊と母の法秀院が一時期に身を寄せたという長野家の住宅が直ぐ近くにありました。写真は宇賀野会館の敷地内にあった石製の説明板です。説明によると、法秀院は村内の子女達に裁縫や行儀作法を教えていて、この習子の中に後に一豊の妻となる千代が居たそうです。この地で一豊と千代が運命の出会いをしたことを知らなかったのでビックリしてしまいました

お城のデータ

所在地:米原市(旧:坂田郡近江町)宇賀野  map:http://yahoo.jp/yAj1tJ

現  状:公民館、宅地

区 分:居館

遺 構:屋敷跡碑

築城期:室町期

築城者:京極高雅

目標地:坂田駅・宇賀野公民館

駐車場:宇賀野公民館

訪城日:2015.10.3

 

 

お城の概要

宇賀野氏館は北陸本線沿いの宇賀野会館一帯にあったとされますが、今は遺構は屋敷碑と水路。

宇賀野集落は、水路がはり巡らされいるが、遠藤氏館の宇賀野会館の周辺も含めて、”中世の歓喜光寺”の外郭があり、浅井氏の被官であり在地土豪を超える存在であった、現遠藤家(連成寺の西)を含む一体の堀=水路も遺構あろう。

会館の西側の路地を北に進むと長野家があります。さらに長野家から北西へ600mほどのところに山内一豊の母である法秀院の墓があります。

宇賀野館は、JR北陸線で東西に二分された西の宇賀野地区にあったと考えられている。小字木戸より流れる水路が宇賀野会館の北西側で北と西の二手に分かれ、北西方向で直交している。この水路で囲まれた通称「西屋敷」が館跡とされ、現在は北西の一角に宇賀野氏の末裔の木村家がある。また、南東には長野家が在り、屋敷地の南東部に水路がめぐり、土塁の一部も残存している。この長野家の南側の水田が小字「親方」である。
なお、主家滅亡により流浪する身となった山内一豊の母・法秀院が身を寄せたのがこの長野家である。
2006年に放送されたNHK大河ドラマ「功名が辻」効果で、当時はこの宇賀野にも大勢の観光客で賑わったが、今は静寂を取り戻しひっそりとしている。

歴 史

淡海木間攫には、「東宇賀野村 遠藤嘉右衛門ト云武士居住スル由ニテ、田地ノ字ニ今以テ唱来レリ、」ある。

島記録に「・・・東宇賀野侍遠藤嘉右衛門尉といふ御前さらすのきり物ありしに・・・天文弐拾壱、正月十一日・・・」と記されている。遠藤嘉右衛門は住していた。明治初期の地籍図に東宇賀野に”東屋敷”が見える。両記述は符号する。

 宇賀野氏の居館。宇賀野氏は京極氏六代高秀の子の高雅を祖。なお、高秀の父は佐々木道誉の名で婆娑羅大名として有名な京極高氏です。この地を支配した京極氏六代高秀の子の高雅を祖とする宇賀野氏の館跡と思われ、現在の小字「親方」は、御館の名残りと推測されている。

この集落内にある長野家は、戦国武将で知られる山内一豊と母法秀院が一時身を寄せたところで、一豊と妻千代の出会いの舞台とされている。
なお、長野家は、永禄2年(1559)に岩倉織田家の岩倉城が織田信長に攻められ落城し、岩倉織田家の家老であった山内盛豊が討死したため、幼い山内一豊と母は流浪し、知人の紹介で永禄3年(1560)宇賀野の長野家に匿われた。

一豊の母・法秀院は、死ぬまで宇賀野に住したと伝えられ、墓が残っている。

長野家

法秀尼は戦で夫を亡くし、織田信長に追われて、宇賀野の長野家に身を寄せていた。利発な千代を見初めた法秀院が、息子(一豊)の妻に推したと言われている。

 

 


 

 天正13年(1585年)閏8月21日、秀吉は、山内一豊に湖北において2万石を与え、長浜の城主とした。秀吉、柴田勝豊についで3代目の長浜城主である。この後、5年間領国政治を行う。
 この長浜城主時代に、一豊と見性院の夫婦に悲劇が襲う。天正13年11月29日、長浜を大地震が襲い、二人の子供である与祢姫が、御殿の棟木が落下した下敷きとなり、乳母とともに息絶えてしまった。この年6歳であった。
 一方、地震から数年後、見性院は城下で男子の捨て子を拾い、養育した。後に、山内家の菩提寺である妙心寺大通院の湘南和尚となる

坂田駅前

宇賀野と法秀院

 戦乱が果てしなく続く尾張の岩倉城は、織田信長に攻められ永禄2年(1559年)に落城、岩倉城の家老であった一豊の父盛豊は城と運命を共にし、一豊と母や弟妹は夜陰の中、城から脱出、家臣や縁故親戚にもかくまわれていたが、信長の詮索が厳しく、逃避、流浪の上、知人の紹介で永禄3年(1560年)宇賀野の長野家に落ち着かれた。
 一豊の母は、夫盛豊が戦死したのち出家し法秀院と称したが、資料が乏しく実名等は定かでない。
 法秀尼は長野家の屋敷の一隅でひたすら息子の武運を念じ、慎み深く質素な生活を送りながら、近在の子女に針の業(裁縫)や行儀作法を教えていました。

 一説によると、この習子の中に、後に一豊の妻となった千代がいました。利発な彼女を見初めた法秀尼は、息子の嫁に推されたと伝えられています。悲運を背負い苦労の中にも地域の人達の温情に守られ、二十数年の歳月が経ち、念願であった息子一豊が長浜城主に栄達の朗報が届き、早々法秀尼へ迎えの使者が来ましたが、謙虚な人で老体が息子の活躍の邪魔になってはと、また長年住み慣れ恩義を受けた宇賀野を去り難く、再三の迎えにも応じず、その翌年天正14年(1586年)7月17日、病にてこの世を去りました。

取り壊された長野家

 


息子の迷惑になることを慮った法秀院は、最期まで宇賀野を離れなかったという。
宇賀野もまた水の美しいところで、集落を水路が巡っていた。
地元の方のご案内で、法秀院や長野家のお話を伺うことができた。

 
宇賀野にある法秀院の墓。平成9年に現在の新しい墳墓になっている。
現在は地元の方が顕彰会を作って、大切に守っている。

 
坂田駅前にある、山内一豊と千代の像。地元の彫刻家の方の作品だと伺った。
NHKの大河ドラマ「巧妙が辻」(司馬遼太郎さん原作)の放送に際して作られたものだという。
一豊と千代が二人並んでいる像は、全国でもここだけだという話だった。


坂田駅のそばには「坂田神明宮」がある。内宮の坂田宮は元伊勢(もといせ)の一つである。
伊勢神宮は、伊勢に鎮座するまで、大和・伊賀・近江・美濃・尾張を移動した伝承をもつ。
一時的に鎮座した場所は元伊勢(もといせ)と呼ばれ、その一つが近江の坂田宮である。
伝承には、伊勢への道中、倭姫命は坂田宮(さかたのみや)に2年滞在したとある。

 
坂田神明宮の境内にあった井戸。神秘的な水の色だった。
歴史ある社寺や建造物を撮っていると、自分の理解の次元を越えるものに出会うことが多い。
そんな時、神話や伝承は何かの寓話であって、暗示するものがあるように感じる。

神話の世界をどう捉えるかは難しいが、何かを政治的に美化するということではなくて、
ただその根底にあるものをつなげてみようというのが、今回の撮影のスタンスにある。
神話は好き嫌いというよりも、共同体の深層心理を探る一つの手がかりになると思っている。

倭姫命に日本武尊、世継の翁と息長氏。織姫に彦星、千代と一豊。
伊吹山の麓には、神話・伝承の人物から実在の人物まで、豊かな物語が残っている。
奇しくも、鈴鹿山脈の北側に坂田宮が、南側に甲可日雲宮があるのは興味深い。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査「旧坂田郡の城」6、史跡ウォーカー

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三田村屋敷 近江国(近江町)

2015年12月17日 | 居館

お城のデータ

所在地:米原市 (旧:坂田郡近江町)宇賀野 map:http://yahoo.jp/XVVai5

現  状:宅地、竹藪

区 分:居館

遺 構:屋敷跡・条里制の畦畔遺構

築城期:室町期

築城者:三田村氏

目標地:坂田駅

駐車場:宇賀野公民館

 2000年に試掘調査実施:近江町報21

訪城日:2015.10.4

お城の概要

 坂田小学校に南(坂田駅の北)に巾1mの水路の巡る竹藪が在る。この中には、土塁も存在しないがあえて引き込んだ感の折れ曲がりながら巡る水路が残る、この構えは「武家屋敷と庭」跡と推測できる。この屋敷住人は三田村氏と推測する。

歴 史

詳細は不明だが、

 三田村氏は京極家の根本被官で東浅井郡浅井町三田の三田村城。が浅井氏の時代にはその重臣として横山城守った一族。ところが、島記録の元亀二年十一月二十八日付け書面には「三田村今井縁者に成時・・・・」また天正四年の事として「・・・三田村殿香典ニアリ・・・」とし、定清の老母に死に際して香典を送ったことが記されている。両者は共に5年間の出来事。更には大字宇賀野と数キロに位置する横山城とかかわる事、また宇賀野には三田村氏の分派し数軒現存することなど勘案すると、場合によれば、同氏が島記録見える前後に宇賀野に住した可能性は高い。

坂田駅からの遠景

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査「旧坂田郡の城」6、史跡ウォーカー

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佐目館(明智屋形 通称:十兵衛屋敷)  近江国(多賀)

2015年11月13日 | 居館

高室山への登山道に【高室山城】が、下屋敷【佐目館】(滋賀県中世城郭分布より)

お城の概要

別 名 :伝明智屋形 通称:十兵衛屋敷

所在地:犬上群多賀町佐目 map:http://yahoo.jp/aixGVb

現 状:宅地、畑地

築城年:室町期

築城者:佐目氏{伝明智氏)

区 分:居館

標 高:233m  比高差:ーm

遺 構:末裔に見津(けんつ)氏宅

目標値:十二相神社

駐車場:十二相神社の近く空き地に路上駐車

訪城日:2015.11.12

 

お城の概要

『滋賀県中世城郭分布調査5』地図番号15Dに高室山城、佐目館の位置図が記す。

伊勢への旧街道を警戒・警備していた。

明智屋敷(通称:十兵衛屋敷)の伝説があり、佐目館【伝・十兵衛屋敷】・・(十二神社本殿と鳥居の間)

歴 史

『淡海国木間攫(おうみのくにこまさらえ)』、には「佐目村 此邑ニ往古明智此処ニ明智十右衛門尉門住ス、出生ハ美濃ノ土岐成頼ニ続セシカ後成頼に背テ浪人シ当国ニ至リ六角高頼ヲ頼ミヨセケル処御屋形曰明智ハ土岐ノ庶流旧家ナリトテ扶養来ヲ与ラレ二三代モ此処ニ居住スト云息十兵衛ニ至リテ越前ヘ立テ越前朝倉家ニ仕ランコトヲ望ム~云々」と記す。

『淡海温故録』には、「佐目 此処ニ明智十左衛門住ス云明智ハ本国美濃ノ者ニテ土岐成頼に続センカ後ニ成頼ニ背テ浪人シ当国ニ至リ六角高頼ヲ頼ミ寄席セケル処屋形日ハ土岐ノ庶流旧家ナリトテ扶養米ヲ与ラレ二三代モ此処ニ住スト云息十兵衛ニ至リテ器量優レタル者ニテ越前ヘ立テ越前朝倉家ニ仕ランコトヲ望ム~云々」と記す

犬上郡多賀町佐目に明智光秀伝説の存在が記されている。

佐目集落の南東端に佐目館が位置する、「十二相神社と鳥居の間に明智屋形(通称:十兵衛屋敷)」の伝承地がある。

 この地に末裔の見津(けんつ)氏が、現在も立派庭園付き屋敷にお住まいで、運良くこの日御当主にお話しを聞けた。(見津(けんつ)の由来は「明智光秀の光を見津に変え、見津(けんつ)」と読み、この地に住み続けている。)

庭が立派な【見津(けんつ)氏宅】・・・(明智氏の末裔宅のようです)

明智光秀の光(みつ)を三津(みつ)に置き­換え、三津(けんつ)と読み・・・多賀町議­さんの説で(自宅で調べましたので)

ご主人に腰越の城鳥瞰絵図(長谷川博美氏の作図の鳥瞰図)を見せて頂きました。十二相神社の鳥居

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査

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長法寺館(田屋氏館) 近江国(高島・マキノ)

2015年10月20日 | 居館

 

石垣寺門・館門(四足門)跡の敷石

お城のデータ

所在地:高島市(旧高島郡)マキノ町沢   map:http://yahoo.jp/JtbkUq

現 状:長法寺

区 分:居館

遺 構:土塁、類似石碑・駒札

築城期:室町

築城者:田屋淡路守

目標地:長法寺

駐車場:長法寺

訪城日:2015.10.18

本堂再建の石碑には領主田谷氏 

海津衆田屋氏の説明駒札

お城の概要

百瀬川と生来川が平行して東流するその北岸の沢集落内の長法寺一帯にあったされる居館。

 今も、境内北側・東側にL字状の土塁が残る。土塁内側は庭園化しているが。

明治期の地籍図からは、二重の堀の存在が確認できる。

マキノ町沢には2つの城跡。長法寺館(田屋氏)とこの地の西にある沢村城(饗庭氏)がある

長法寺は戦国期の天文4年(1555年)に田屋(田谷)氏の居館が建立されたのが、

江戸時代の大火で焼失し、寛文3年(1663年)に田屋(田谷)氏の居館跡に本堂が建立されている。

 内側の庭園部

お城の歴史 

長法寺館は、

寺伝によると永正年間に田屋淡路守の家臣 宮島四朗兵衛が証如に帰依し、天文四年に宮島四朗兵衛・菊松親子が道場を開いたのが始まり、また三世了空の代に、丑寅の方向にあった道場を田屋氏居館に移し、永応元年道場を建立したと伝えられ、田屋淡路守の居館

 内側の庭園部

  長法寺の裏に、土塁が残る。

室町幕府の政所執事代の蜷川親元が記した『蜷川親元日記』には、康正6年(1456)9月10日の条に、「江州海津衆」として、饗庭・新保・田屋が蜷川親元の一族蜷川信賢の若君誕生祝いに上洛した記されている。

『鹿苑日録(ろくおんじつろく)』には、

天文7年に高島七頭と呼ばれる高島群内有力領主佐々木六角定頼の命により海津を攻めた合戦では、田屋氏(浅井方)は長法寺館を捨て、山城へ引き(結城である田屋城へ立て籠もっる)饗庭氏は海津西城浜に陣を敷いた。 その後、天正元年に浅井氏が滅ぶと田屋氏も浅井氏と運命を共にしたと考えられている。

  本能寺の変後の天正10年(1582)6月、近江高島郡は丹羽長秀に与えられた。翌年3月に賤ヶ岳の合戦が起こり、羽柴秀吉方の長秀は、柴田軍の南下を阻止するために知内浜城をはじめ、森西城・沢村城・田屋城(詰め城)等を修築したと伝わる。 

田屋氏は北近江・高島郷を支配する土豪であった。

田屋 明政(生没年不詳)は、戦国時代の武将。通称は新三郎、石見守。近江国の戦国大名浅井氏の一族(浅井亮政の婿養子)。

浅井氏当主・亮政の嫡子・新四郎政弘には嗣子がいないまま早世したため、嫡女・浅井鶴千代(政弘の同母姉)の婿として亮政の養子となった。この時、「浅井新三郎明政」と名を改めている(新三郎は亮政の通称であったものを受け継いでいる)。

だが、後に亮政は庶長子(諸説あり)の久政(海津殿の異母弟)を自身の後継者と定めたため明政は姓を「田屋」に戻して、身を引いたという。

養父・亮政の死後、京極氏と手を組み後継者の義弟の久政と争ったという説と、家督の移譲が滞りなく行われたため、争いがなかったとされる説(上の争いには明政が関わっていなかったとする)がある。婿養子は、浅井政高。明政の長女は海津局(婿養子・政高室)、二女は饗庭局。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(高島の城)、レジュメ、高島の城と城下パンフレット

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西円寺館 近江国(米原・西円寺)

2015年10月14日 | 居館

集落の入口(八幡神社横)に城址碑

西円寺山門本堂

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡米原町)西円寺 map:http://yahoo.jp/T9xj4c

区 分:居館  

標 高:120m  比高差:10m 

現 状:寺・山林

遺 構:郭・土塁・城主墓・城址碑・類似説明板

築城期:戦国期

築城者:今井氏

目標地:西円寺 

駐車場:西円寺参拝者駐車場

訪城日:2015.10.12

 西円寺山門本堂

境内には、

創建当時に植えられたと伝わる『木斛樹』、樹齢600年。

龍目井

お城の概要

西円寺館は馬蹄型に山がめくられ、北に開かれた地形。西円寺の本堂の南側は(近江稲荷)土塁と認められるところ

西円寺の山門は奇抜な山門でした。説明板によれば、窟門(竜宮門)と呼ばれる中国形式の門で双龍門(閣)と呼んでいるそうです。寺の南側は尾根の先端がY字に分かれて平地に下りてきている斜面という感じですが、土塁にも見えます。この中腹に、ここを支配した今井氏の墓所があります。

本堂裏に

 

玉泉庭

近江稲荷近江稲荷土塁

西円寺全景(今井一族の墓地)

 

西円寺山門の向かいの山上へ・・・西円寺館の詰め城か?

今井氏墓所中央の小さな墓碑と大きい五輪塔

 向かいにも、墓碑(歴代住職墓か)

山上にも墓碑が一基
境内の南西に張り出した舌状尾根に今井権六三代の墓が残されている。

今井権六三代の墓の刻印は風雨にさらされ、文字はほとんど判読出来ないが、大きい五輪塔は「天正十二年***」と明確に読みとれ、こちらが14代目今井権六秀俊であることは間違いない。ちなみに今井権六三代とは、14代当主が今井権六秀俊(権六尺夜叉),15代当主が今井権六定清(権六備中守),16代当主が今井権六秀形(権六丸)であったことから名付けられている。

歴 史

 京極氏の根本被官(筆頭家老)今井氏の菩提寺であり、境内から100mほどの距離にある今井権六三代の墓には、三代の墓と云われながら、一石五輪塔が2基しかない。あと1基は不明とのこと。
また、境内の墓所に年代の古い宝篋印塔が1基あり、これがそうかもしれないが土に埋もれており、確認は出来ていないとのこと。

京極氏、浅井氏に従った箕浦城を本拠とする今井氏の館とされます。

西円寺の一帯は、京極氏根本被官であった「今井氏の奥城で菩提寺」でもある

 今井氏14代今井権六秀俊は享禄元年(1528)の内保河原の戦いで六角方が敗れたため、浅井方に従ったが天文2年(1533)に浅井亮政に進退を疑われ神照寺で切腹させられた。15代今井権六備中守定清は浅井方に属し、永禄4年(1561)太尾山城の夜襲で敵と見誤った味方の槍で背後から刺されて討死し、また、子の今井権六丸(秀形)は秀吉に従っていたが天正11年(1583)に伊勢にて討死し同じくここに葬られたとあります。 <現地案内板より>

坂田郡では、旧近江町寺倉の西隣の大字西円寺にある西円寺館は、今井氏の一族寺倉氏の屋敷とも・・・安土)城郭研究所HPより

竪堀風斜面竪堀風斜面 

平削地山上にも墓碑が一基

頂部へ

竪堀か?土塁

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3)、 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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旗本西郷氏邸  近江国(山東・梓)  

2015年10月14日 | 居館

旗本西郷氏邸碑

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡)梓河内 map:http://yahoo.jp/nBdYD3

区 分 :居 館

築城期:江戸期

築城者:西郷氏

遺 構 :郭址・土塁・石碑

訪城日:2015.10.12

第4章 米原市内の鎌倉街道(中世東山道)引用

江戸後期 旗本西郷氏領 梓河内村」 手前側に 「右中山道]、裏側に 「左 旧中山道」を示している。

旧中仙道はぬかるんでいるが少し山に入ってすぐに右に進む旧道を進む。東山道の雰囲

旧中山道旗本西郷氏邸跡

小黒谷遺跡碑

山裾の途中にある「館跡 小黒谷遺跡」。

 梓地区は山間部の狭い範囲であり、有力者が駅(宿)を運営していた。

小川の関・菖蒲池

詳細不明坂田郡史」に稚淳毛両岐王(わかぬけのふたまたおう)の守りし関屋(関所の施設・現存しない)と書かれ、大字柏原小字小川の辺りに比定、小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。一面何処も植栽され、あるいは野原となっているが、戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていたところである。したがって、往事を偲ぶようすはないが、古道の山側には整然と区画された屋敷跡「館跡」を確認することができる。 (米原市・米原観光協)

菖蒲池跡

君がながしき例しに長沢の 池のあやめは今日ぞ引かるる 大納言俊光

  「此の池の芹、名産なり、相伝う。古昔二町(218メートル)四方の池なりと。今は多く田地となりて、漸く方二十間(36メートル)計りの池となれり。」    享保十九年(1734)『近江與地志略』

 その後、天保十四年(1843)には、「菖蒲ケ池と申し伝へ候旧地これ有り。」と  『中山道宿村大概帳』  江戸後期には消滅したようである。

  『近江坂田郡志』は、この池が天野川の水源だったと述べている。

 参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3)、現地案内板、 第4章 米原市内の鎌倉街道(中世東山道)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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